愛 蘭 土 紀 行



 7年前スコットランド、イングランドを旅したことがある。ヒース生い茂るスコットランドに魅せられた、小学唱歌「蛍の光」はスコットランド民謡である。「庭の千草」それに「ダニーボーイ」はアイルランド民謡である、ケネディー大統領の先祖がアイルランドであることは五十年前米国に出張したとき知って驚いたことがある。何時かは行ってみたいと思っていた。以前ドイツのツアーでご一緒した作家高橋光子さんが主卒している同人誌「群青」に「アイルランド紀行」を載せられた。高橋さんはU社のツアーである、しかし後期高齢者の私、妻は杖をついている。W社のアイルランドの旅が10日間のゆったりしたスケジュールで何とか行けそうであると、折畳みの車椅子を持って出かけることにした。アイルランドに行くなら司馬遼太郎の「愛蘭土紀行」を読んだ方が良いと大学同期のY君に言われて早速読んだ。僭越ながら司馬さんに及びもつかないがせめて名前は「愛蘭土紀行」を拝借してこの紀行文を書くことにした。

 2011年7月4日月曜日成田空港出発である。横浜からだと成田エクスプレスが快適だが、成田で歩く距離が長い。バスのYCATなら出発フロアーに着く。娘婿に横浜駅まで送ってもらいYCATに乗ることにした。たまたまシニアー勧誘キャンペーン中である、通常片道三千五百円が二千円であった。「身分証明書をお願いします」と言われて、「持っていない」と言ったら、「パスポートをお持ちでしょう」と言う、なるほど。最初から「お年が分かるもの、例えばパスポートとか・・・」と言ってくれればよいのに。
 バスに乗る際、折畳み車椅子を座席際に持ち込んだ。重さ5.6kgだか前輪経6インチ、後輪経12インチ、畳んでも座席の横に置いておくとバスの発車、停車のときに動く。やむを得ない一番後ろの席に置かしてもらった。
 ツアーの集合は出発の2時間前、第1ターミナル北ウィングに行く。受付で男性添乗員Hさんから書類などもらって驚いた。総勢25名、夫婦が5組あとは熟年女性陣、男性単身者はいない、こんな事は今までのツアーで初めてである。
 定刻にVS901はロンドン向けに飛び立った、12時間半、時差8時間の辛い搭乗である。機内食で日本食の弁当に人気があった、妻は弁当だがそこで在庫切れ、私はビーフしちゅうで我慢した。飲み物はビール、ワイン、ウィスキー、ジュースなど銘柄も色々あった。
 ロンドン空港に16時、ここで乗り換えてアイスランドのベルファストに行く。所要時間1時間20分で19時到着の予定と聞く。ところがヒースロー空港で降りてからベルファスト行きのターミナルゲートまで遠い、一番ターミナルの端である。英国はアイリッシュが憎いから一番端のゲートのしたのではと勘ぐりたくもなる。
 空港を調べてみた、ヒースロー空港は長い4kmの二本の滑走路が東西にレイアウトされている。これでは乗り換えが大変である。昨年行ったシカゴ・オヘア空港は東西に三本、北西に二本、北東に二本と七本も滑走路がある。ターミナルは5もあり、無人のシャトルバス、一部の動く歩道には天井に7色のネオンが輝き軽音楽が聞こえてくる。ヒースロー空港はシカゴの半分強の発着回数とはいえ、顧客サービスをどう考えているのだろうか?シカゴは観光客よりもビジネス客が圧倒的に多い。ビジネスマンの移動時間短縮の要望にこたえているのであろう。観光客が黙っていても飛んでくるヒースロー空港では顧客サービス改善の意識は少ないのかもしれない。
 ヒースロー空港での乗り換えに妻は杖をついて歩くと言うから、畳んだ車椅子をごろごろ転がして1km以上歩いた。後から聞けばあらかじめ車椅子使用者は空港サービスに言えば、専任サービスマンが専用椅子でローカルターミナルまで運んでくれるそうだ、しかし言葉が不自由であれば頼みにくい。
ターミナルの移動に、健常者は歩くのが速い、妻は早すぎると杖をつき、ぼやきながらも歩いていた。
アイルランドのベルファスト空港はローカル空港、ポーターがいない。各自荷物をバスに運ぶ羽目になる。私は荷物二つをガラガラ押していく、妻は無人の車椅子を杖代わりに押していく、珍道中である。
 専用バスでホテルに着いたのは21時、外は未だ明るい。夕食を食べなくて寝る人、ラーメンを造って食べる人いろいろだが、私は近くのコンビニでサンドイッチとジュースを買ってきた。日本と違い酒は売っていないのは不便である、後から聞いたら酒屋を探してビールを買ってきた人がいたのには驚いた。

 二日目は9時出発、7時からの朝食に大勢が早くからレストランのセルフに並ぶ。半ば食べ終わったM夫妻と席を共にする。Mさんは体格のよい元商社マン、現地駐在の責任者らしかったが食欲が旺盛なのには驚いた、大皿が二つも並んでいる。奥さんは人あしらいの巧みな美人、50過ぎてスペイン語を勉強し、子供は日本において夫とともに南米に赴任したとは驚いた。メキシコに夫妻で遊びに行ってレストランで食事中、奥さんは席を外しテラスにもたれたら2階から落っこちた。眼鏡が割れた、左のか顔が潰れている。救急車で病院に運び込まれたが、どうも信頼できない。応急手当をしてロサンゼルスまで車を飛ばした。幸い手術の必要もなく傷も残らないほどであった。メキシコのレストランは3分の2しか費用は払ってもらえなかったなど得難い経験を話してもらった。同じような事態が発生したら、私なら周章狼狽、言葉も不自由でどうなったか?保険は入っているにしても、とてもMさんのような行動はとれない。夫妻が事件を淡々と笑いながら話す、度量のある人だなあと朝早くから感心して聞いていた。
 バスは50席もある大型、2席に一人とゆったりできる。席は4班に分かれて日替わりで交替するようになっている。一番前は添乗員とバスに弱い人、体調の悪い人の席になっている。運転手はポーランド出身で51歳、子供は男の子一人とのこと、添乗員と同じであると二人の話が弾んでいた。小雨の中バスはジャイアンツコーズウェイに向かって北へ北へとひた走る。100km、1時間半で着いた。北アイルランドの海岸に六角形の石柱群がある、全部で4万柱とも、世界遺産である。

 ビジネスセンターに着いた、ここからミニバスが10分おきに出ている。先着の外人が多くて待たされる。小雨の中仮設のトイレとか土産物屋でたむろしていた。添乗員が集合をかける、妻が行方不明、探していたら、ミニバスに既に乗っていた。一人置いて行かれるところであった。雨の中歩く人はいなかった、約1キロである、全員バスに乗った。
雨がやんだ、ラッキーである。石柱群をバックにして写真を皆撮っている。雨上がりの岩は滑りやすい、それでも転んだ人はいない。妻も杖をついて岩を登っている。私は今度も広角12mmの一眼レフとビデオで一応撮しておいた。岩場にミニ三脚を置き、木の箱形の写真機で白黒の写真を撮っている女性がいた。後から毎年個展を開いている女性と分かった、次回の個展は希望者には案内状をくれるらしい。海岸線が8kmも続いている、幸い晴れたからと断崖と石柱を見に行く人もいた。10分おきのミニバスでビジネスセンターまで帰る人、1km歩く人もいた。私も歩きたいがぬかるんだ道、涼しいというか寒いくらい、後期高齢者でもある、杖をついている女房とバスで早々に退散した。


  ジャイアンツ・コーズウエイ 西側原野
    六角柱の柱群   東側原野

 ブッシュミル醸造所は17世紀英国王の認可を受けた世界で最古の蒸留所である。近くのレストランで昼食、ここまで来たからにはアイリッシュ・ウィスキーをテイストしたかったがその時間はなかった。以前スコットランドに旅したとき、蒸留所を見学、テイストしてスコッチ・モルトウィスキーを飲んだ味が忘れられないからである。
 昼食には時間がかかる、まず飲み物、ギネスビール、ワインなどの注文を取る。デザートの後に紅茶、コーヒーの注文を取る。ギネスは小が3,中が5ユーロ。ワインは白・赤チリ産のミニボトルが5ユーロであった。ギネスを飲む人が大半だが、中にはワインを飲む人もいた。女性陣の飲みっぷりの良さには驚いた。
 帰りのバスはアントリム海岸道路を走る、晴れてきてドライブは景観の連続で心地よい。ときどき右側の崖の上に古城が現われる、今は訪れる人もいない廃城である。途中キャリック・ア・リードの吊り橋のところで写真ストップ、長さ20m、高さ24m、幅1m、揺れて渡るのは怖いだろうな。
 ベルファストで車窓見学、H&W社の造船所、シティホールなど。豪華客船タイタニック号がここで造られたが原因不明の惨事で1500人も亡くなったとか。出航・沈没100年記念の6階建ての博物館を建設するそうだ。それよりもカトリック系とプロテスタント系住民が住む地域が違う、その間がピースライン、壁画が描いてある。ベルリンの壁画に比べると規模は小さいが、宗教対立の業の深さを感じさせる。
ホテルで夕食後、ホテル前のロビンソンパブに何人か出かけていた。ホテルから見ている限り、あまり繁盛していないみたい。車で来て飲んで夜中の1時、2時に車で帰る人もいた。殆どの人が観光客で地元の人は少ないみたい。Mさんほかパブに行った人に聞いてみた。
パブで「ロンドンデリー」と言うのはまずい、「ダニーボーイ」と言わなければならない。そもそもデリーをロンドンデリーと言うのは、喩えは悪いが韓国を朝鮮と言うのに等しい。過去の歴史を知らないからだろう、失礼と言うことだった。「ダニーボーイ」にしても本当のアイルランド民謡とは言えない、米国に4000万人もいるアイルランド出身者が故郷を偲ぶ歌とのことだった。メロディーはアイルランドの古曲かもしれないが、ロンドンで作詞され、米国で歌われ有名になった。最初はビングクロスビー、日本でも美空ひばりも歌っている。貿易センター9・11追悼式典から、最近では東日本大震災でも唄われている。「ダニーボーイ」は余りにも有名になり、デリーでは観光の目玉になっている。またアイルランドでも若い人は「ロンドンデリー」と言われても、そう拘る人は少ないという話も聞いた。

 三日目は移動日、ベルファストからアラン諸島のイニシュモア島に出かける、途中修道院の遺跡クロンマクノイズを見学する。8時半バスに乗り込み高速道路を一路南下する。北アイルランドからアイルランド共和国に行くのだが、国境線を越えたという感じはない。高速道路はあまり車が走っていない。乗用車が多く大型のトラックは少ない、時速は80kmから100kmくらい。ベルファストからアスローンまで250km、3時間で着く。アスローンはアイルランドのほぼ中央、シャノン川沿いの交通の要衝である、大西洋から遡れる。アスローンの南シャノン川沿いにクロンマクノイズはある。小雨が降ったり止んだりのなか、遺跡見物に出かける。アイルランドは5世紀ごろケルト人の国であった。ケルト人は自然崇拝と多神教、霊魂不滅の考え方であり、人は永遠に若く、死ねば神々が住む国に行くと信じられていた。そこに聖パトリックがカトリックの布教にやってきた。彼はケルト教とカトリックを融和させ父、子、精霊の三位一体説を打ち出した。修道院をつくり修道士を育てる、それから地域に布教した。
 クロマクノイズはアイルランド12使徒の一人聖アランが6世紀にタラの大王に支援されて教会を建て後に修道院になった。ハイクロスという聖書の教えを刻んだ十字架とラウンドタワーが特徴である。修道院は宗教だけでなく学芸・文化の中心であり地域の財が集まってきた。それを目当てにバイキングが襲来し、財だけでなく時には若い人まで掠奪していった。ラウンドタワーは破壊のたびに大きくなり、20mのものも建てられた。敵の襲来を告げる役目、教典などを保管する役目を持ち、入り口は2mの高いところにつけられた。シャノン川沿いにある、アイルランドの中心であるということで初期キリスト教の中心的役割をした、タラの大王の埋葬地でもある。しかし全盛期は7から12世紀、16世紀には英国軍に占拠され廃墟になった。ビジネスセンターのビデオガイドでは樫の木の丸太の帆掛船で布教を続ける修道士が出てきた。

 ハイクロス  ラウンドタワー  教会跡に残る聖人のレリーフ  修道院跡の遺跡

 川で往き来して布教する、親鸞を想いだした。日本の仏教は9世紀、遣唐使で最澄、空海が修行してきて、それぞれ天皇と貴族のために最澄が延暦寺に天台宗を、空海が高野山に真言宗を樹立した国家仏教に始まる。念仏を唱える浄土教は衆生を平等に救うために法然が12世紀浄土宗を、後に親鸞と末裔が浄土真宗を打ち立てた。親鸞は常陸(茨城)で湖と川を丸木の帆掛船で20年間布教した体験から、「和讃」とか「教行信証」を著した。日本は多神教の国である、宗派の違いで殺戮を繰返さなかった、死ねば仏(神)になると教えられた。一神教の国では死んで神になることは絶対にない。日本は島国で蒙古の襲来はあったが、外国から攻められず日本独特の宗教・文化が育ったのは良かったのではないか。

 小雨があがったクロンマクノイズを発ち、アスローンのホテルで昼食をとり、ゴールウエイを経てロッサヴィールに行く、300km3時間のドライブ。ゴールウェイが近づくにつれて牧歌的な緑に、羊、牛が草を食む風景は少なくなってきた。17世紀英国クロムウエルがアイルランドを攻略したとき、東の肥沃な土地をカトリックの貴族が所有していたが、収奪され英国の貴族に分け与えられた。さすがのクロムウエルも緑の少ない西のゴールウエイまでは攻めてこなかった。おかげで原野が残されている。
 ゴールウェイの港からもフェリーは出ているが、ロッサヴィールからフェリーに乗る方が近い。大西洋がしけると船酔いが出て大変、今はロツサヴィールからの方が多いらしい。大型バスにスーツケースを置いて1泊だけの荷物を持ってフェリーに乗り込む。目指すアラン諸島のイニシュモア島は眼の先だが45分もかかった。1階の船室はそれほど揺れないが、2階のデッキは島を離れると結構揺れた。ビデオを撮るとき何か手すりに捉まっていないと危ないくらいであった。
島のホテルも少ないが最新のホテルに泊まった。シャワーしかない、ホテルはツアーで占有しているが部屋のランクが色々あるから苦情は御法度と添乗員が言う。たまたま3ベッドもある部屋、バスのある部屋でラッキーであった。しかし私がバスを使ったときは湯が出たが妻が入ったときは水しか出なかった。皆が一斉にバスを使い湯が不足したらしい。
 夕刻から降り出した雨は土砂降りになる。明日は古代要塞のドンエンガスに登れるのかどうか気になり窓の外を時々夜中に見た。BBCのテレビは北アイルランドのベルファストとロンドンデリーの天気予報はするが、アイルランド共和国の予報はない、灰色である。地元のTV局の予報があるらしいが、分からなかった。

 四日目はお目当てのドン・エンガス見物である。土砂降りの雨は止み小降りになっている。小さな狭いマイクロバス2台に乗り込み遺跡巡りに出かける。アーキン城、教会・修道院跡を見てドン・エンガスに向かう。ビジネスセンターに到着してから、添乗員は時間を決めるから各自見物してきてください。1本道だから迷うことはないという。元気な女性陣は早くも飛び出していった。風が強く、時折小雨が降る、足場も悪い道を約1000mも登らねばならない。折畳車椅子はぜんぜん役に立たない、妻は杖を片手について歩き出した、傘をさして登ることにした。途中から雨は上がり、頂上に着く頃は雲間から光も射してきた。大西洋の断崖絶壁、海面から90mの高さ、風も強い。恐る恐る腰をかがめて近づく。ビデオとか写真を一通り撮り終えて帰る事にした。杖を突いていても上り30分、下り20分であった。外人は腹ばいになり頭一つ断崖から出して下を覗いていたが、日本人はあまりやらないみたい、雨で岩が濡れていることもあった。
司馬さんは崖下を覗いたらしいが感想は書いていない。司馬さんはなぜアイルランドに行きたいか、それはアラン島を見たいからと書いている。記録映画「アラン」を見て惹かれたらしい。孫引きだが
「アラン島には、実のところ、土となづくべきものはない。岩盤の上に土地を造るのだ。岩路の砂ほこりや、道の両脇へ踏み弾かれて集まる砂利を集め、それに海藻をまじえて畑を作る」
 またシングの「海へ乗りゆく人びと」の舞台をみるためアラン島を訪れた深代淳郎さんは
「石また石のすさまじさに圧倒される。風化石を積み上げた石がきが、土地を細分し、島の隅々まで続いている。その石垣に囲まれているのは−やはり同じ石だ。石を石で囲んで、どんな意味があるのだろう」
 司馬さんは2輪馬車に乗り、老人に取材している。
「映画監督はいい人だが、映画は駄目だな。話がうますぎるよ。アラン島はあんな石ころばかりじゃないさ。石のあるところばかり出てくる。あれを見ろ、土がある」
 確かに文学とか映画ではアラン島は題材として面白いであろうが、現実この目で見て私も老人のセリフに共感する。石灰岩に覆われた農耕地としては不毛で灌木すら生えない島であることは確かである。ここに年間30万人余の米欧人がくるらしい、ノスタルジアの時代は遠くなったのではと想う。
 ただなぜ小さな石を積み上げた石塁を作るのか、それは折角海の藻を積み上げて土に混ぜる、それが飛ばないように、雨に流されないように、2000年この方の苦渋の農漁民の努力の賜らしい。しかしドン・エンガスには3重の延々と続く石塁がある。ここまで藻を運んだとは思えない。砂、埃の積み上げ、そこに植物が生えては枯れ草になる、雨が降るその連鎖で岩の間に緑が目につく。多分10cmも深さはないかもしれない。ドン・エンガスが古代軍事要塞というが、ここまで敵が攻めてくるとは信じられない。断崖の絶壁の岩の広場、そこは神聖な儀式の聖地ではなかろうか。ここで風に煽られながら、朝日を、夕日を眺めたら誰でも信仰心が芽生えるであろう。紀元前の住民が石に信仰心を持った、石は呪いでもある、それが3重の石塁を造ったとしか思えない。

 ドン・エンガスへの登り道  遺跡が見えてきた  海抜90m  風が強い、こわい

 Mさんの奥さんが下りの岩道で足をくじいたのか、びっこを引いている。とても痛そう、Kさんは湿布薬を取り出して貼る、自分が突いていた杖をMさんに貸していた。古希のKさん、女性でマンション理事長をやり大規模修繕を指揮した、リーダーシップは抜群。英語が巧い、若い頃英国で家庭教師をつけて勉強したとか。豪快である一面神経は細やかであるのに驚いた。
Mさんにバスの中に折畳車椅子があるから、これからの観光に使われたらと提案した。しかしMさんは、今まで使ったこともない、自信がないとのこと。確かに簡単そうに見えるが、車椅子は乗るのも、押すのも要領がある。初めてでは大変かもしれない。
 土産物店でアランセーターが人気である。手触りはよいが何せ分厚い。これは防寒着である、土産に買おうと思ったが多分子や孫は着ないであろう。着込んだ人がいる、暑いと言ったら「それはスエーターだから、SWEAT(汗)からセーターは生まれたのよ」と茶化す人がいた、本当かな?
 オックスフォード大学のイーグルトン教授はアラン島について面白いことを書いている。「アイルランド観光庁が世界の言語学者と人類学者を惹きつけている。アメリカの人類学者が民話を集めている、それで語りがうまい島民が増えた。アラン・セーターがにあう人はそれほどいない」これは「The Truth about The Irish」日本訳は小林章夫「とびきり可笑しなアイルランド百科」に出ている話。

 フェリーでロツサヴィールに戻り昼食の後で、迎えに来た大型バスに乗りコングに向かう、50km、1時間半。コリブ湖の北にある小さな町である。戦後公開されたジョン・フォード監督の「静かな男」のロケ地として有名。修道院ほかロケ地を歩く、小雨がぱらつき「静かな男」のコテイジも、映画を見ていないからあまり感慨はわかない。司馬さんの本によれば現地撮影6週間の内、一日中お日様が照っていたのはたった6日しかなかった。監督はアイリッシュ、主演者の女優モーリン・オハラ、男優ジョン・ウェインほかアイリッシュを総動員して撮った。移民の末裔が故郷を想い映画を撮る、世界で6000万とも言われるアイルランドの血をひく人は拍手喝采したのであろう。
 泊まるホテルはアシュフォード城、13世紀に建てられた城が19世紀にホテルに改造された。敷地が140ヘクタール(140万平方米)、森と泉に囲まれ9ホールのゴルフ場まである。乗馬、インドア・アウトドア・テニス、釣なんでもござれ、カトリック教会まである。生まれて初めて豪勢なホテルに泊まる。敷地の中をコング川が流れる、鮭が泳いでいる。ギネスタワーもある、じゃじゃふりの雨、流石に散歩する気にはなれないのが残念である。超高級ホテル、チェックインした後、ドアーがノックされる。出れば正装の女性、室内の器具の不具合が無いか聞いて回っていた。ビデはどうでもよいが、ウォシュレットがあれば最高であろう。

 以前明治24年に建てられた箱根の富士屋ホテルに泊まったことがある。欧州のホテルに遜色ないホテルを建てた、レストラン、温泉、プール、部屋の造りが豪勢でびっくりしたことがある。しかし政商小佐野さんの手に渡る。アシュフォードもギネス家の手に渡る、超有名ホテルはそれなりに経営に苦労している。



 五日目はモハの断崖を見てキンセールに向かう日、まずバレン高原に行く、100km、1時間半。
 カルトス地形の石灰岩で形成されたバレン高原、日本の秋芳洞と変わらない風景が展開する、ただしスケールが違う。ドルメンと呼ばれる大きな石の墓石がある。古代の遺跡かもしれないが、教会とか修道院跡と言われてもあまりピントこない。近くには洞窟とか砦跡があるらしいが古代への想像力が働かない。荒涼とした石灰岩の大丘陵としか思えない。

 バスに乗りモハの断崖に行く、25km、30分。海抜200mの断崖が8km続いている。これは壮観である。天気はよいが風が強い、帽子を飛ばされた人がいる。60代の若い女性軍は遠くまで見に行ったらしいが、どこまで行っても同じような断崖の景色であると笑っていた。大西洋が果てしなく丸くみえる、北にはアラン島が霞んでみえる、風が強くなければ最高である。

 昼食後アデア村に向かう、90km、1時間半。
茅葺き屋根の家もある、小さな村と言うが町である。可愛い村コンテストに優勝したというが、観光客誘致には良いかもしれない。スイスの街角に立っているような気がするところもある。
 バスでキンセールに向かう、130km、2時間半。



 六日目はコーヴに向かう、50km、1時間半。
 大西洋に面した天然の良港であるコーヴのヘリテージセンターでアイルランド移民の歴史を見る。北西のコークは米国独立戦争、英仏戦争の時の英国の兵站基地でもあった。またバターの海上貿易で英国が巨万の富を築いたところでもある。しかしリー川の土砂が堆積して港は東南のコーヴに譲ることになった。英国マンチェスターと共に移民の出港地でもあった。19世紀半ばじゃが芋の洞枯れ病はアイルランド島を総なめにした。未曾有の大飢饉になり主食のじゃが芋が採れない、種芋まで食べ尽くしたところもあった。借地料を英国地主に払えない小作農は立ち退きをせまられる、餓死か移民か、コーヴから小さな小舟で漕ぎ出していく。別名「棺桶船」と言われ米国にたどり着くまでかなりの人が死んだ。それなのに英国議会は英国の地主を支援する、大量の麦、じゃが芋が植民地アイルランドから英国に運び出された。第2次大戦後アイルランド共和国が成立して半世紀後、大飢饉追悼記念式典に英国首相がアイルランド国民に謝罪をしている。英国国教会も当時のカトリック農民に謝罪している。
 沈没したタイタニック号、ドイツ軍に撃沈されたルシタニア号の展示もあった。
町を見下ろす高台に聖コルマン大聖堂がそびえている。フランスに支援されたゴシック建築、多くのカリヨン(釣り鐘)もあった。階段式住宅もある、ここからコーヴの港を見下ろす景色はよい、コークが見える。
 コーヴの港 対岸はコーク  港を見下ろす大聖堂  階段住宅

 またキンセールに戻る、50km、1時間。キンセールのレストランの昼食に出たロブスター料理は美味しかった。アイルランドの食事は、じゃが芋は良いとしても大味であまりおいしくなかった。ドイツのソーセージとじゃが芋の食事を思いだし食傷気味であった。鮭とか魚料理は未だ良い方である。
 キンセールの町はこじんまり、迷うところはないと自由行動になった。ショッピングに余念のないご婦人達、ここは割合安いとか買いまくっていた。スーパーに入る、有名な紅茶50パックが2ユーロ、日本で買うと1500円もするとか教えられて、土産にも良いかと4箱買うことにした。

 七日目は列車でダブリンに向かう日、何時もは9時だが今日は8時45分出発、コークのケント駅に向かう、45分。1時間も前にケント駅に到着した。それはバスより列車の方が速い、ダブリンでツアー客を待つためにバスが早めに発つためであると分かった。駅はコーク市街のリー川北にある、市街中心までは1km余。駅で所在なく待つことになる。アイルランド南部のケント駅、始発駅だがそれほど大きくはない。10時半発、4駅に停まりダブリンまで2時間50分かかる。
 切符を添乗員からもらい乗り込む。驚いた、座席指定だが席の上にフルネームのネオン文字が出ている。観光客サービスか? 出発したらガラガラ、空いた席に座る、途中の駅で乗り込んできたら替わるだけ。
 コーク観光バス  駅展示の蒸気機関車  列車車内  ダブリン駅  古いパブ

 列車が動き出したら、男の人が飲み物、食べ物をカートで売りに来る。日本の新幹線のカートによく似ている。あまり買う人はいなかった。広軌の電車だが、あまり乗り心地は良くない。いぜんフランスでTGVに乗ったが、それよりも見劣りする。日本の新幹線は世界最高である。
 テーブルがある対面の席があった。そこに座り変わりゆく車窓を眺めていた。アイルランドの南部、東部は肥沃である。丘陵地帯に羊、牛、馬が草を食む風景が延々と続く。不思議なことに農家が洒落た小綺麗な家ばかりである。古い農家にお目にかかれない。これはどういうことだろう、目をこらして見続ける。まさか列車から見える農家は新築したということでもなかろう。そういえば北アイルランドでは古い農家も目についた。
 司馬さんは書いている。
「一般国民の納税率は収入の6割なのに、農村は無税である。農家の家屋は政府の助成金がもらえる。国家の基礎は農家と牧畜にある。EC加盟以来農産物の価格はあがり農家は豊かになった」
これは25年前のことである。政府長期残高はGNPの130%、破綻寸前の財政危機であった。財政再建が行われ、東アジアの成長を学べと経済改革が行われた。ケルティック・タイガーと呼ばれる高度成長は、法人税を10%にする外国企業誘致である。米国他中国までハイテク産業が進出して経済成長を謳歌する矢先、リーマンショックがやってきた。
 新聞を見て驚いた。福島原発ニュースよりも、ギリシア債務危機の話題が多い。しかしポルトガルとアイルランドの国債は「投機的水準」という、これはジャンク債である。アイルランドは5月には10年物国債利回り10%であったのに、この7月には14%台まで跳ね上がった。
 ツアー同行のご婦人、自然大好きでアイルランドツアーに参加したが、日経新聞の切り抜きを見ながら、「アイルランドの財政再建はうまくいくのでしょうか」と言う。ハイレベルのご婦人がいるツアーに参加したものだ。ご婦人でタバコを吸っている人がいる。アイルランドのタバコのシェア一位はなんと日本のJT、知らなかった。


 定刻に列車はダブリン・ヒューストン駅に着いた。バスがちゃんと迎えに来ている。昼食を12世紀からの古いパブBRAZEN HEADで食べた。古色蒼然とした部屋、棚に古書が並んでいる、文士ジョイスなどの溜り場でもあった。英雄オコンネルが宿泊していたからか、食事中何人かの観光客が部屋を覗きに来る、パブの広告効果のあらわれ?
 市内観光に出かける。
トリニティカレッジでケルズの書を見る。ケルト文化とキリスト教の調和のもたらしたものらしい。渦巻き模様で何が書いてあるのかよく分からない。ケルズの修道院で修道僧が丹念に書き上げた物、9世紀のものが良く保存されていると感心する。イーグルトン教授は「精巧な渦巻き模様や装飾は、書かれている内容よりも書体にこだわりすぎている。入り組んだデザインのため、部分が全体を支配している」 素人にはよく分からない代物。

国立博物館で「タラのブローチ」「十字架」などを見る。ケルトの装飾がどのような物か分かる。8世紀に造られた物だから初期キリスト教がケルト人によってどのように理解されていたのかが分かる。決してローマのキリスト教をそのまま受け入れていたのではない。
夜リバーダンスを見たいと言う人が多い。添乗員はチケットを取ったがホテルの夕食と重なる。夕食を食べずに行くことになる。バスを止めてコンビニに入って軽食を買う人が並んでいる。一人66ユーロ、19人も行くと聞いて驚いた。そのためにダブリン市内観光は犠牲になる。まあそんなものかもしれないが、私はリバーダンスよりもダブリン城とか税関、市庁舎など見たかったのに。
夕食は添乗員と6人、このくらいの人数がワイワイガヤガヤ面白い。そのあと私達夫婦を除いて4人はホテルのアイリッシュダンスを見に行った、ところが席が無くて帰って来たという。

 八日目はダブリン郊外のタラの丘、ニューグレンジに行く日。 
 朝食の時、Mさんにあうと、同僚のNさんと二人でゴルフに行くという。月曜日は料金も安く空いていて予約が取れたらしい。Mさんの奥さんに「ゴルフウィドウですね」と言ったら、「慣れています、いいじゃないですか。趣味はゴルフで世界のコースでプレイするのが夢とか言っています」との答えに感心した。海外ツアーに参加して、亭主だけ二人ゴルフに行くと言うのは初めてである。
 ダブリンの北40km、1時間半でタラの丘に着く。小高い丘と草原で、ここに古代タラの王朝があったなどと想像できない。ケルトの聖地と言われる、政治と文化の中心で祝典など儀式の会場もあつたらしい。紀元前のこと伝承される神話以外に分からない。文字で記録を残さなかったケルト民族、その偉大さは謎のままである。ただ、タラと言えばアイルランド人の心の古里であり、海外に移住した人達にとっては聖地であることは確かであろう。それは聖パトリックが異教と相まみえたところとか、ケネディ一族の祖先がここで王朝と対戦したとかの伝承がますますタラを聖地にしているのであろう。
 ポイン河畔にビジネスセンターがある。そこからマイクロバスでニューグレンジに行く。イングランドのストーンヘンジとかエジプトのピラミッドより古い遺跡らしい。直径約20m、高さ6mの墳墓、それが歴史遺産になったのは、冬至のときに太陽の光が墓の内部に射し込む、神々しいからである。ペルーのマチュピチでも冬至、夏至を崇めている。紀元前に天文学もないころ、また大きな石も運搬してきてよくも造ったものと思う。
 ニューグレンジ 巨大な墳墓  渦巻き模様の巨石の入り口  モナスターボイスのハイクロス

 ポイン川河口のドロヘダは東のアイリッシュ海で英国のリバプールに面している。17世紀英国から渡ってきたクロムウエル軍が虐殺を繰返して、ケルト人を追い払い、肥沃な土地を取り上げ英国の貴族に分配した。その怨念を晴らすため、アイルランド・フランスのカトリック連合軍が英国軍とポイン河畔で対峙したが、衆寡敵せず敗退した。アイルランドがプロテスタントの英国国教から様々な蔑視、差別を受けることになった。その意味ではニューグレンジ周辺は遺跡ということよりも、アイルランドの忘れることの出来ない土地として心に刻まれる歴史遺産であろう。
 ポイン川から北の田園地区にモナスターボイスがある。そこには5世紀頃のハイクロスとラウンドタワーがあった。修道院・教会の跡地であろう、今も墓標が散在している。ハイクロスに聖書の物語が書かれていると言うがよく分からなかった。

 ダブリンに帰り聖パトリック大聖堂に行く。日本語のパンフレットがあった。「司祭長と参事会より皆様に歓迎と募金への感謝を申し上げます」と表紙に書いてあった。「アイルランドで他に類を見ない豊かな歴史と遺産を受継いできました」と書いてある、いろいろな祈念碑、像が飾られている。詳しく見るには時間がなかった。いまはアイルランドのプロテスタントの教会、近くにクライスト・チャーチ大聖堂もあるがこれもプロテスタント教会。カトリックを信仰してもは貧乏で大きな大聖堂はできなかった、カトリック国であるのにと複雑な思いがする。
 ニューヨーク5番街、ロックフェラーセンターの近くにに聖パトリック教会がある。アイルランドから移民してきた人達が建てたもの、今や大統領の宣誓までが行われている、お祭りも華やかだ。聖パトリックは偉大な足跡を残したものだ。

 九日目 いよいよ帰国。5時半にスーツケースを部屋の外に出して6時にロビー集合、慌ただしい。朝食が特別にロビーで用意されている、胃袋に流し込む。バスで空港へ40分で着く。8時40分ダブリンからロンドンへ、1時間20分、飲物サービスがあるがこれは有料。10時にロンドンに着いたが成田行は13時45分、時間をもて余す。おまけに出発のゲートがセキュリティーもあるのか、ぎりぎりの時間にアナウンスされる。疲れることおびただしい。
 高齢者が多いので、どうしても疲れがたまってくる。あるご婦人、搭乗券を紛失したと慌てている。スーツケースまで開けて、皆で応援して探す。結局本人の服のポケット内にあった。ある殿方、ベルファストでお釣りをもらったが、これが北アイルランドだけしか通用しないポンド札。空港内で銀行他交渉したが、つまるところ英国ポンドには交換できなかった。知ってはいたが、忘れていたとのこと。
 11時間45分、時差8時間、機内食2回で成田空港に着いた。行は満席に近かったが、帰りはがらがらであった。空いている席を二つ使い巧みに寝ている人がいた、真似してみたがなかなか寝ることはできない。
 添乗員がアンケートを配る。創業以来の代物らしい、もう少し書きやすく改善したらとアンケートに書いた。

 司馬さんは「愛蘭土紀行」の最後に書いている。
「旅路の鈴が鳴り続いている、不思議な国だ。文学の国としかいいようがない。・・・偏った言い方をすれば、行かずとも、イェイッやジョイス、あるいはシング、でなければベケットを読むだけでもいいといえるかもしれない」
 ちょっと待ってよ、司馬さん、本を読めば行かなくても良い、それはないでしょう、偏見かもね。
 司馬さんはアイルランドに行くのに、ロンドンに行き、リバプールからダブリンに渡った。紀行文の4割は英国のことである。それは、英国が「光」であるとしたらアイルランドは「影」であるという自説を検証するためでもある。イングランドの最初の植民地がアイルランドであり、そこで溜め込んだノウハウがその後の7つの海を制覇するのに役立ち大英帝国となる。戦後植民地を手放すことも早かった、それはアイルランドに手を焼いていたからでもある。
 私は七年前か中西輝攻さんの「大英帝国衰亡史」を読んで英国を15日旅したことがある。紀行文も書いた、「英国紀行」。覇権国の英国の影にはアイルランドがあった。英国も緑が残った、アイルランドも残っている、それは辛くも悲しい物語ではあることは、現地を見て始めて分かることである。
「文学の国」それはそうかもしれない。文学ノーベル賞受賞者が4人、一人当たり詩集の売り上げは英語圏では第一位、欧州ではフランスに次いで2位とか。それはアイルランドの風土が生んだもの。ゲール人の伝承文化、それにカトリックと英国国教会の対立、英国の植民地支配でダブリンを中心として一部混血化、食えなくて海外移住したが帰国などによる異種の文化の混交・相乗作用で文学の国になったのかもしれない。しかし時代は変わる、今後とも文学の国で有りつづける保証はない。時間があれば「ダブリン作家記念館」に行きたかった、タラの丘の帰りに途中下車してと思ったが果たせなかった、残念である。

 司馬さんは「英国は貴族の国である」と言う。優秀な貴族出身の学生は、文化系は哲学とか法学を選考する、経済学部にはいかない。技術系は純粋科学を専攻し、決して工学部などには行かない。オックスフォード、ケンブリッジの貴族の末裔は油にまみれることを潔しとしない。物づくりが苦手で大英帝国は衰退した、それは貴族制度、誇り高きノブレス・オブリージェが良くも悪くも尾を引いている。貴族はそうかもしれないが、おちこぼれで紙パックがいらないサイクロン掃除機を開発したダイソンは「物づくりこそ富の源泉」と言っている。「不動産と金融が生み出す富は不安定である」と喝破している。英国でも人はいる、それを生かす風土が悪いだけである。
 アイルランドは英国の植民地で永年搾取された、農業国ではあるが物づくりは後進国である。物づくりの風土は育っていない。カトリックとプロテスタントの勤労意識の差について、マックス・ウェイバーは「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で勤労の大切さを説いている。カトリック大国のアイルランドは勤労意識にかけているというと語弊があるかもしれないが、「アイリッシュは働かない、怠け者、酒ばかり飲んでいる」と言う風評が今でも一部あることは確かであろう。
 司馬さんは日本の物づくりが、米作で勤労意識が育てられたと言う。それはそうだがアジアで米作が盛んなところでも勤労意識は必ずしも高くない。司馬さんは日本仏教についてあまり肯定されていないが、私は専修念仏の浄土系仏教の貢献をあげなければならないと思う。百姓は米作、町人は商いなど衆生が念仏を唱えながら懸命に働いた、それはプロテスタンティズムの倫理と一脈通ずるものがある。浄土宗、浄土真宗の盛んな地方が、物づくりおよび商いが巧い事は確かである。

 アイルランドの特殊性についてイーグルトン教授は20あげているが、面白いものを引用する。
1 地震は震源が記録されたことはない、地震を避けるには良い場所である。
2 血をあまり流さずにキリスト教カトリックが定着した唯一の国である。
3 EUの中ではもっとも中央集権国家である。ダブリンと地方の較差が酷すぎる。
4 欧州から海外への移民が一番多かった。
5 20世紀に最初に政治的独立を獲得した国である。
6 教会への出席率は欧州では一番高い、東欧を含めればポーランドの次である。
7 2代続けて女性大統領を選んだ国である。大統領に権限はない。
8 ティーを飲むのは世界一、一人当たり3kg消費する。
9 世界最古のウィスキー醸造所がある。
世界で唯一のケルト人国家である。
欧州の中で人口密度が低い、人口の平均年齢が低い。
欧州で侵略や動乱があっても同じ国民が同じ国に長く暮らしている国である。
 そのほかに学校の所有者が教会で、政府が費用を負担するという政教一致である。福祉施設も教会が多く担っている。公立校の学費は無料である。しかし所得税は高い、農家は優遇されている。そのたいろいろあるがこのくらいで終りにしよう。

 司馬さんの「愛蘭土紀行」は挿話、逸話が面白い。ケネディー大統領の父親は、アイリッシュを束ね民主党を応援していた。ルーズベルトはケネディーに世話になって大統領になった。論功表彰でケネディーは英国大使を所望する。英国大使に赴任したケネディーは、英国がドイツに滅ぼされるのが小気味良かった。その昔のアイリッシュの怨念がドイツを秘密裏に応援したくなったのであろう。日本の大使は戦争中英国から引き揚げた。しかし隣のアイルランドには日本の公使がいたという、何とおおらかな国であろう。
  
 今回のツアー25名、司馬さんの「愛蘭土紀行」を読んでいたのは添乗員くらいか?時代は遠くなった。時期もあり学校関係者、医療関係者、官僚、作詞など文学愛好者も多く、知的水準は最高レベル、それなのに司馬さんの本が読まれていなかったのは寂しかった、と書いて紀行文を終えよう。
                             (旅行後一月 2011.8.13)

参考文献
「街道を行く31―愛蘭土紀行―」 司馬遼太郎
「図説 アイルランド」 上野格・アイルランド研究会編・著
「とびきり可笑しなアイルランド百科」 テリー・イーグルトン著、小林彰夫訳
「地球の歩き方 アイルランド」 地球の歩き方編

   
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