大国の狭間で永らえたルーマニア・ブルガリア


 

       V 大国の狭間で永らえたルーマニア・ブルガリア 

 両国の歴史を紐解けば、言語・民族・宗教が同じのラテン系のルーマニアとスラブ系のブルガリアがバルカン半島で良くも生き残ったものと感心する。古代・中世はさておき近世とりわけ20世紀を見ても生々しい史実がある。

 ルーマニアが何故ソ連圏に組み込まれたか。ヤルタ会談以前にルーズベルト、チャーチル、スターリンの暗黙の了解があった。ソ連は南下を目論む、とりわけルーマニアについてはソ連圏として、ギリシアはイギリスの勢力圏とすることで話し合いがついた。いわゆるバルカン謀議である。チャーチルはスターリンに、ルーマニアの支配権90%はソ連、ギリシア支配権の90%は英国、ブルガリアはソ連が75%、ハンガリーとユーゴは55分と彼我の勢力分割を行った。ルーマニアとブルガリアは謀議を知らない、できたら戦後は西欧圏に入りたいと思っていたが、現実は思いのほか厳しく両国とも戦後ソ連共産主義の洗礼を受けることになった。

 領土についても、1940年ルーマニアはベッサラビアと北ブコビナをソ連に取られ、南ドブロジャをブルガリアに割譲させられた。モルドヴァ共和国はルーマニアとは鉄のカーテンが引かれたが、ルーマニア人が3分の2もいてルーマニア語とモルドヴァ語を話している。ルーマニアの西北地区トランシルヴァニアもハンガリア人、ドイツ人の町も過去にはあり多元性が特色で他のルーマニアと特性が異なる。

 ブルガリアは1393年ブルガリア帝国がトルコ軍に敗戦して以来約500年間もトルコの属国になっていた。ブルガリアの秘密組織が蜂起・叛乱を企ててもトルコ軍に鎮圧される、大虐殺の憂き目にもあった。ロシアの「スラブ人同胞独立支援」の南下政策でトルコがロシアに敗戦したおかげで、1878年ブルガリアは晴れて独立誕生することになった。

 共産党は19449月祖国戦線として政権が誕生してから、ソ連の後ろ盾もあり力を伸ばした。軍の将官を大量に罷免し、マスコミなどメディアを手中に収めた。ソ連から顧問が送り込まれ、秘密警察である政治警察を組織し、新警察として人民部隊も設立した。これは戦争犯罪人とその協力者を一掃するためであったが、ブルガリアはドイツ同盟国ではあるがそれほど該当するものはいなかった。共産党は旧勢力一新のため政府関係者などを逮捕、なかには処刑される人も何十人か出た。圧政に保守派・中道派は転向を迫られ、地下活動にもぐるものもいた。政府はおさえても国民の8割は農民である。他の東欧諸国では貴族や亡命者の土地を取り上げ農民に配分してエビでタイを釣ることはできたが、ブルガリアの農民は土地持ちが多い。共産党一党独裁政治により、国家・地方の重層的支配権確立を目指した。ソ連モデルの産業国有化、対外貿易独占、さらには難関の土地の国有化を進めた。正教会も例外ではない、司祭組合をつくり教会の国家・共産党への忠誠を誓わせた。正教会以外は非共産圏との繋がりを恐れて実質禁教となった。粛清の嵐は共産党内部にもありソ連の支配に反抗するものは秘密警察の手により抹殺されていった。

 1971年には共産党は「統一された社会主義国家」を綱領にかかげる。トルコ系ブルガリア人イスラム教徒はスラブ人に改名を要請され、断れば悪名高き収容所に収監された。1984年にはトルコ系住民にブルガリアまたはスラブ系の名前に改名を要請した。またトルコ語新聞廃刊、トルコ語のラジオ放送も禁止された。150万人もいるトルコ系住民のうち30万人はトルコに亡命したともいわれる。手工業だけでなく農業もトルコ系住民優位であり、彼らが抜けて、その生産活動への影響は甚大であった。

 ルーマニアはドイツ軍とともに戦いレニングラードまで侵攻したものの、英米軍に支援されたソ連軍はルーマニア国境まで反撃してきた。ルーマニアは事態を重く見て、ドイツ枢軸国を離れることを決断してブカレストほか都市を激しい戦いで解放して行った。ソ連軍とともにルーマニア軍はハンガリー、チェコスロバキアなどドイツ陣営を攻略した。終戦時に期待した論功行賞はなくそれどころか、ベッサラビアと北ブコヴィナのソ連への割譲と戦争賠償金まで払わされた。

 共産党はソ連の後ろ盾で国王を退位させ、政治関係者を収容所に送り込み人民共和国を樹立した。1948年「宗教法」を公布し、修道院を職業センターにして修道士を職人にしようとした。15年間で2500人の修道士が逮捕され、2000人が修道士以外の職種に就いた。 

 ソ連もロシア正教会で同じ東方正教会と思っていたが、正教会は各国独立で、おまけに共産党は無神論であった。正教会のなかではルーマニア正教会は唯一ラテン語から発生したロマン語で儀式をとりおこない、ロシア・ブルガリアではスラブ語で儀式を行うなど些細な差はあった。

 屈辱をこえてルーマニアは民族共産主義と自主外交に道を求めた。雪解けをへてソ連はルーマニアに関わっておれない、その間隙を見て中国、フランス、米国、西独などと外交交渉を結んだ。西欧はソ連圏に楔を打ち込む機会と支援を惜しまなかった。経済面での発展もあり共産党は国民の支持を得ていたが、チャウシェスクが文化大革命と北朝鮮をモデルに体制変換したことからルーマニアは坂道を転げ落ちることになった。

 今でも24年前の1989年は、歴史の転換点だったと鮮やかに思いだす。天安門事件が64日に起こる。続いて東欧革命が雪崩のごとく起こる。ポーランドの非共産国家成立が618日、ハンガリーの民主政府が1023日、ベルリンの壁崩壊が119日、チェコスロバキアのビロード革命が1117日、ルーマニアのチャウシェスク射殺が1225日である。ブルガリアの場合はトルコ系住民圧迫策で共産党長期政権が崩壊した、しかし残念ながら民衆の意識革命には至らなかった。

 ソ連と東欧共産圏国家の宗教を北から縦断して概観すると

ロシア     :ロシア正教会

エストニア   :プロテスタント

ラトヴィア   : プロテスタント

リトアニア   : カトリック

ベラルーシ   : ロシア正教会

ウクライナ   : ロシア正教会

ポーランド   : カトリック

ハンガリー   : カトリック

東独      : プロテスタント

チェコスロバキア: カトリックと一部プロテスタント

ルーマニア   : ルーマニア正教会

ブルガリア   : ブルガリア正教会

(ギリシア   : ギリシア正教会 東欧圏ではない)

マケドニア   : マケドニア正教会

スロベニア   : カトリック

クロアチア   : カトリック

セルビア    : セルビア正教会

モンテネグロ  :モンテネグロ正教会

アルバニア   : イスラムと一部カトリック、正教会

 これを俯瞰しただけでも経済はプロテスタント>カトリック>東方正教会と思える。マックス・ウェーバーは1904年に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を著した。彼の説は批難ごうごうであるものの、1世紀前に喝破していたとは立派なものである。

東方正教会は国ごとに独立し、トルコのイスタンブールにある東方正教会は国ごとの正教会を統括はしていない。カトリックはローマの教皇が世界のカトリックを統括している。

 1978年ポーランド出身のヨハネ・パウロ2世がローマ教皇に就任した。生まれ故郷で『共産主義は恐れるに足らず』と演説したのが大衆に勇気を与えたと言われる。そのため教皇は2度暗殺の憂き目にあっている。最初は教会改革反対のスペイン人神父、翌年はソ連KGBとブルガリア共産主義の傀儡であるトルコ人。これを予兆に東欧革命は大衆の共感を地滑り的に呼び覚ました。

 国民が食べるものがあり、働くことができる、それが最低の幸せだ。教育を受ける人が多くなり、求める生活水準が高くなる、これは時代の流れである。今回ブルガリアとルーマニアを旅して隔靴掻痒ではあるが、経済を発展させることが政治の崇高な使命であると改めて認識した次第である。

 

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