イスラエル紀行


 イスラエルに行ってみたい、中東の火薬庫とかテレビ・新聞で言われているわりに、残念ながらイスラエルの正しい知識は乏しい。イスラエルは20085月建国60年を迎える、人口は700万余、一方ヨルダン・ガザ・ヨルダン西海岸・シリア・レバノンなどに400万余のパレスチナ難民がいて彼等にはナクバ(大破局)の60年かもしれない。イスラエルは歴史の浅い国である、しかし4回もアラブ諸国と戦った、核兵器保有は公然の秘密と囁かれている。欧州は大体見た、三大宗教のメッカを現地・現物で見ておくのも良いだろう。

「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策」という分厚い上下2巻の本が出た。シカゴ大学、ハーバード大学の政治・外交の専門教授の書いた本である、吃驚した。米国がイスラエルに与えている金銭的・軍事的支援は米国の利益になってないばかりかイスラエルの長期的発展を阻害している云々。言論の自由が保証されているとはいえ、ロビーストに対してよくも実情を書いたものと感心した。日本では報復が怖くて知識人は筆が鈍るところだ。

 その本によれば、2005年米国の経済・軍事援助は1540億ドル、これはイスラエルのGDP相当額である。イスラエルの軍事費はGDPの5%くらい。いつまで軍拡競争が続くのかイスラエル対パレスチナ、ユダヤ対アラブの根深い対立を思うとき確かに考えさせられる。ユダヤ系米国人は総人口の3%、しかし多額の政治献金をしていることで有名である。民主党の大統領選挙候補者は個人献金の60%はユダヤ系の米国人とのこと、そこまでとは知らなかった。今米国はオバマとクリントンで大統領選挙が白熱化しているが、ユダヤ人有権者は重要な州、カリフォルニア、フロリダ、イリノイ、ニュージャージー、ニューヨーク、ペンシルヴァニアでは高い投票率を誇っていたそうだ。かってケネディー大統領はユダヤ人の80%の票を獲得したとのことなど面白いことが沢山書いてある。

 ツアーは各社いろいろある、イスラエル旅行がブームのような気がした。Y社の「聖地イスラエルのすべて 10日間」が費用の割には中身が充実している。成田からテルアビブまで直行便はない、トルコのイスタンブール経由か、ウズベキスタンのタシケント経由かどちらかである。費用はタシケント経由のほうが1万円安い、知らない空港を見るのも良いだろう。時期は野原の花が綺麗な3月末がよい、かくて2008319日から28日のY社のツアーに参加することになった。

 出発3日前に添乗員から電話があった、寒いかもしれないからセーターの用意をしてきてください、四海の浮遊体験では水着とサンダルを準備くださいなどなど。今まで添乗員といえば女性であったが、男性の添乗員は珍しい。どこの旅行社も正社員の添乗は少ない、新陳代謝が激しい、女性で30を過ぎると体力的にきついが経験でカバーしているの話もあった。男性でも女性でも良いが添乗の仕事は旅が好きでなければ務まらないであろう。

 横浜から成田まで、イクスプレスとバスと二通りある。以前イクスプレスで時間通りと思ったが人身事故で開通時間不明とのこと、JR,京成を乗り継ぎ1時間遅れで成田につき慌てたことがある。2時間前が1時間前、何とか間にあったが神経の消耗は甚だしい。今回はバスで定刻30分前に着く予定であったが、湾岸道路が事故で45分遅れの見込みという。イクスプレスに乗り換える手もあるが面倒だ、バスに乗り込んだ。バスのドライバーは携帯で渋滞距離、時間を本社に問い合わせ、途中高速を下りてまた乗る。成田には結果的には20分遅れで着いた。

 ツアー23名とのことだったが、13名しかいない、関西空港から10名乗ると聞いて驚いた。Y社のツアーは関東方面の人が多かったが、最近インターネットの普及で関西地区の人が参加するようになったとのこと。さらに驚いたのは今までのツアーでは年配の夫婦が7割と多かったが今回は独り者が7割と逆転している。たまたま時期的に学校の休み、しかも行き先がイスラエル、学校の先生・職員関係者が多かった、独り参加の女性が4割と健闘している。

 20時発のウズベキスタン航空、45分遅れの出発である。なぜか聞いてみたら、ウズベキスタンから成田経由で関空に行く人の荷物を、誤って成田で降ろしてしまった。その荷物が見つからない、見切りで飛び立つことになった。高年のおばあちゃん旅行族、機内でがやがや姦しい、無料で当たり前、落とし前をつけて自宅に配送してもらいなさいなど悪知恵を連発していた。添乗員は成田で降りている、自衛で頑張るしかない。バゲジクレイムは海外飛行場の専売特許と思ったら日本でも起きているのにはびっくりした。

 関空で降りて1時間後にまた乗る、席は同じである。中国の上空を飛んでタシケント空港に3時半に着く、時差はマイナス4時間。ここで人と荷物は乗り換える、それは良いとしても待ち時間が4時間、空港の待合室で寝るわけにはいかない、疲れること夥しい。空港のトイレ、一応洋式であるが、大のほうに紙がない、女性陣は慌てていた。別のトイレに紙はあるが、ゴワゴワである。日本でも戦前戦後、庶民のトイレは新聞紙であった。オイルショックのときは白い紙でなく茶色の薄い紙であった。贅沢に慣れきった眼には、新鮮にすら映る。7時半に飛行機は30分遅れで飛び立ち、テルアビブ空港に9時半に着く、時差はマイナス3時間。飛行機に14時間、途中の待ち時間4時間、合計18時間、年寄りにはきつい。時差ぼけが防止できると言った人がいたが、それは西から東に移動したときのこと、直行便のほうが良いに決まっている。

 テルアビブ空港と言えば、一昔前の昭和47年5月30日、忌まわしい日本赤軍による空港襲撃事件を思い出す。東大・日大闘争で敗戦に打ちひしがれていた日本赤軍、「よど号ハイジャック」「連合赤軍浅間山荘事件」「赤軍内部大量リンチ殺人事件次」を次々と引き起こす。アラブゲリラがテルアビブ空港ではアラブ人の入国・テロが難しい。日本人なら入国・テロは易しいと唆され、奥平・岡本・安田の3人が教育・訓練を受けてイスラエル入国、入管手続きが済んだら銃を発射、24人死亡、73人重軽傷。奥平と安田は射殺されたが岡本は生き残った。アラビアのローレンス並みに日本赤軍幹部が称えられていると聞いて当時は恥ずかしかった。日本の政治家・官僚および知識人・マスコミはテロに甘い、世界では舐められると当時は慨嘆したものだが、現在もその状況はあまり変わっていない。

 建国の偉人を偲んで今はベングリオン空港と名付けられている。大きな空港である、バスの発着場が近接しているのは珍しい。入国手続きは世界一?厳しい、時間がかかる。パスポートにノースタンプと言う、別の紙にスタンプを押してもらい、入国手続き終了。手荷物検査で、何もX線で映っていないのに、バッグを開けさせられる。8割位の人が開けさせられた。まさか36年前の赤軍派が自動小銃をバッグに潜ませていたこととは関係ないと思うが。

 今日は入国手続きが順調だとのこと、1時間半でやっとのこと大型バスに乗り込む。現地ガイドはSさん、イスラエルに来て30年過ぎたという名物ガイド。なんでもキブツに実習に来て、キブツは相性が悪い、そこでガイドになったみたい。言いたいことをズバズバ言う、自信家でもある。しかし何でも知っている、やたら水を飲む人、皆にも水を飲むように薦める。水は1人1日1本無料サービス、足らない人はドライバーから安く買えとのことだった。

 空港から北へ40キロ、1時間で カイザリヤ に着く。地中海に面したこの都市は紀元前1世紀ヘロデ王がギリシアのアテネに匹敵する港町を築き始めた頃から繁栄したらしい。今は遺跡の村である。ビザンツ時代、ローマ時代、十字軍の街の城壁が残っている。40年前発掘・修復されたローマ時代の円形劇場は地中海に向けて建つ。直径170m、夜風に吹かれて自然の音響効果は素晴らしいかもしれない。現在もコンサートに使われている。日本の大相撲がここで興行した、異国情緒で好評であったとのこと。

 地中海に十字軍時代の要塞が遠望できる、いまだ発掘中のところがあるとか、開発されたら一大リゾートに変身するかもしれない、海は波もなく紺碧で綺麗であった。残念なことに木々はない、白砂青松ではない。

 海岸沿いに水道橋がある。市民は当時4万人?天然の水桶、井戸水では飲料水に事欠く。9km東の山から灌漑用、飲料水用と2本を引いたというから当時のローマの凄い技術と多くの奴隷の汗の結晶であることに驚く。








 カイザリアの北北東30kmのところ、65号線を走り1時間でメギドに着く。メギドは地中海とナザレ、ガリラヤ湖を経てシリア・ヨルダンに行く交通の要衝でもあった。紀元前より第一次世界大戦までメギドでは民族の戦いは尽きたことがない。「ハルマゲドン」は「メギドの丘」という言葉からきている、最終戦争を意味するらしい。今も黙示録の預言を信じている人がいると聞いて驚く。紀元前35世紀からという遺跡群の模型を見てから、遺跡群を見て歩く。地下水道の螺旋階段トンネル、腰を屈めてひたすら下りるのは年寄りにはきつい。紀元前からの遺構がよくも発掘・保存されている、それだけの価値はあるだろう。

 見学は1時間、その後バスはハイファに向け走る、1時間で着く、丘の中腹のホテル、眺めはよい。夜景がサンフランシスコ並みで綺麗だから丘の上から街と海を見ると良いとのことだったが、疲れて出かける気はしなかった。搭乗中はまどろむ程度、熟睡できないで朝になる、それから観光では顔に正直に疲れが出てくる、男性の髭も、女性の化粧も。

 イスラエルでは朝食・昼食だけでなくホテルの夕食もビュッフェスタイル、食べたいものを盆に取りテーブルで食べる。ビール・ワインなどもセルフサービスのときもある。何か落ち着かない、せめて夕食だけでも給仕してくれないかと思うのは古希過ぎの年のせいかもしれない。

 

 21日金曜日、朝8時に出発とのこと。バゲジダウン7時、朝食も7時、慌しかった。

見学するところが多い、金曜日でもある、早くホテルに着きたいとのことであった。ユダヤ教の世界では金曜日の日の入りから土曜日の日の入りまでが「安息日」となり労働はご法度。電車はもちろんのことバスも動かない、エレベーターも動かない、シャバットということだったが、観光客には海容の心で迎えてくれることもあるらしい。

 ハイファ はテルアビブ、エルサレムにつぐイスラエル第3の都市、山の手のカルメル地区から市街と港を眺める。天然の良港である、キプロス島経由ギリシア・トルコ方面フェリー乗り場が港にある、近くには空港もある。1世紀ローマ軍が軍事都市として建設してから十字軍により壊滅した街になった。それが1882年からロシア・ルーマニア方面からユダヤ人がイスラエルに移民するようになった。第一陣はテルアビブの南のヤッホー港に着き、10年間で2〜3万人移植した。彼らは廃墟のハイフォーに眼を付け、港、鉄道を整備し新ハイファ都市を造りだした。自由・平等の街が建前、ユダヤ教だけでなく、バハーイ教、カルメル教など少数派の宗教が共存している街でもある。たかだか100年余の歴史の街とは思えない。

街の下からバハーイ教の霊廟と庭園をみる、一幅の絵になる見事なものである。











 ハイファから30分でオールドアッコーの街に着く。紀元前の時代から天然の良港として魅力的な街であったが、それゆえに外敵に何回となく攻められ、そのつど再建されてきた。地下を掘れば埋蔵物が出てきて文化財に登録されるものが出てくるだろう、そんな感じがする旧市街地である。城壁の中は綺麗とはいえない、今はアラブ人が住んでいる。外壁の外はそれに比べると綺麗である、新市街地はユダヤ人が住んでいる。





 アッコー は古地図にはアッコンと記されている。西欧のカトリック諸国がギリシア正教の国ビザンツ帝国(ギリシア・トルコなど)を越えて、イスラム地域の聖都エルサレムを奪還する目的で派遣した遠征軍が十字軍である。
1096年から1270年まで200年弱合計7回の十字軍が聖戦としているが、イスラム諸国にしてみたら侵略軍である。21世紀になりローマ教皇パウロ2世はギリシアを訪れ、十字軍は侵略・虐殺・略奪行為として正式に謝罪している。その十字軍は陸路にしろ、海路にしろアッコンを経由地にしている。旧市街の街の名前に十字軍の入り口、十字軍の町というのがある、さらにヴェネツイア広場もある、その影響の大きさが分かる。ナポレオン通りがある、1799年ナポレオンに攻められたが、傭兵が弱かったのか退却した、その記念みたい。

現在はオスマントルコ時代の建物が多い。聖ヨハネ騎士団の要塞跡もその一つである、中は7つの部屋に分かれている。その後大ホール、中庭、食堂を見て最後が病院。十字軍だけでなく巡礼の人達の医療の世話をした本部である。建物の天井は高くアーチは見事なものである。

 トルコ風バザールは賑わっていた、規模は違うとはいえ雰囲気は昨年訪れたイスタンブールのバザールに似ていた。商売であるからか、食べることが禁じられているものも売っていた、食べる人の責任ということかもしれない。金曜・土曜の安息日もあまり関係ないみたい、観光客には嬉しいことだ。



 高い時計台がついた隊商宿もある、
1階が馬、2階に人が寝る部屋がある、19世紀以降修復されたみたいだが、それにしても立派な施設である。十字軍とか巡礼の人達すべてが、このような立派なところで宿泊したわけではないだろうが。

 地中海に面してマリーナがある、色とりどりのヨットが係留されていた、海は凪いでやたら日差しがきつくて暑いほどである。気温は25℃だが乾燥しているからか、それほどには体感温度は感じない。

 


 バスで走ること50分、ナザレの近くの ツイッポリ に着く。ここは紀元前から街があつたらしい、遺跡が残っている。その内の一つは紀元1世紀から4世紀にわたるローマとユダヤの戦いで、ユダヤ人は破れ世界に離散する。エルサレムを追い出されたユダヤ人がここに住み込んだ。多くのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)が建てられた跡がある。イスラエルの七草は知らなかった、大麦・小麦・葡萄・無花果・柘榴・棗やし・オリーブらしい。モザイクがある、人のモザイクは少ない、ガリラヤのモナリザとか美しいものがある、モザイクは光が当たると経年劣化が起こる、保存に気をつけることが望ましい、なけなしの文化財である。

 ツイッポリからバスに乗りカナに行く途中、キブツで昼食になる。ここでは禁止されている豚肉があった。仏教徒は別に禁じられているわけではないから食べる。観光本位にキブツも変わり始めた。キブツは建国時ソ連のソフォーズや中国の人民公社を真似た社会主義的農業共同体だが、個人には能力差がある、働いた人ほど収入が増えることを認めたところに一大特徴がある。個人に土地所有を認め小作を使う農業ではない、共同の土地、共同の農器具、共同の農作業である。60年前建国の父で初代首相のベングリオンは「全ての人は働く」「全ての人は農業にかえる」を主唱し、これが新生イスラエルの国造りのスローガンであった。しかし農業だけでは所得水準は上がらない、多角化の経営を模索している。イスラエルの国も観光を目玉にし始めた、政府に観光省ができた、観光客全員に日付と名前を入れた「聖都エルサレム訪問認証状」を無料で発行している。

 カナ はナザレに近い村、イエスが初めて奇蹟を起こしたことで有名になった。婚礼に招かれたマリアとイエス、宴の途中マリアはワインが少なくなってきたことをイエスに告げる。イエスは大きな清めの水瓶に水を満たすように指示する。アラ不思議、水は芳醇なワインに突然変異、それを見た弟子たちはイエスに満幅の信頼を寄せるようになったとか。神話に属する話がヨハネ伝に書いてある。現在もその奇蹟を奉り、ギリシア正教会とフランチェスコ教会が建てられている。

 土産物屋に「カナの婚礼ワイン」が売られている。試飲した、甘ったるいワインである。1号壜アルコール度数11%、6本セットが良く売れている。巡礼に訪れた信者が土産に買うということだが、日本人観光客のほうが大判振る舞いで購入している。

 カナから77号線を走りガラリヤ湖北の カペナウム に着く。ベスレヘムに生まれナザレに住んだイエスはカペナウムで宣教した。ここはペテロの姑の家があったところでもある。イエス時代のシナゴーグは廃墟の中であろう、遺跡として4世紀頃の造作が残っている。列柱とかモザイク、聖油と言われるオリーブ油を圧搾した石臼などがある。廃墟からはその昔、イエスの宣教の地としてかなりの大きさのものであったことは全景から想像がつく。ユダヤ教信者であるイエスが安息日に働く、病人、貧者、弱者に親切すぎる。時には偶像崇拝も認める。地元のユダヤ教信者からは驚きとやがて背信の動きが出始める。イエスはやがて戒律が厳しいユダヤ教の反逆者の烙印を押され、カペナウムを去ることになる。

今日のスケジュールはナザレに行く予定だったが、金曜日で安息日のため教会の見学ができず急遽変更になった。明日また今日来た道を引き返しナザレに行くとのこと、そんなこと旅行の企画のときに分かっていたのではないかと思う。携帯電話は便利である、ドライバー、ガイドがスケジュール調整に腐心している。

ホテルは安息日でエレベーターは動かないということだったが、動いていた。シャバット・エレベーターと言うらしい。時代は変った、観光立国なら、動くものはダメ、エレベーターはモーターで動くなんて硬いこと言わずにお客さん本位で働いたらどうかといいたくなる。

ビュッフェで夕食後、隣の談話室でツアー参加者の自己紹介が開かれた。23人中3人が欠席した。個人情報何とかやらで氏名しか分からない、自己紹介も門切り型で面白くない、お通夜とまで言わないが味気ないものだった。一期一会、今までのツアーはもっと面白かった、ナゼだろう、一人参加の女性が多いからか、熟年夫婦が少ないからか、ビュッへスタイルの夕食のせいかそれは分からない。

 

322日の土曜日、8時にガリラヤ湖畔の中心であるティベリアのホテルを出発する。湖北の タプハ にある「パンと魚の奇蹟の教会」に着く。イエスが5個のパンと2匹の魚を5千人が満腹する量にした奇蹟に基づいて建てられた教会。仏教徒は余り奇蹟の話が続くので信じられない思いがするが、「信ずるものは救われる」ということなので宗教の偉大さをしみじみと感ずる。

隣に「ペテロ首位権の教会」がある、これはカトリック信者の言い方、プロテスタントは「ペテロ召命の教会」と呼ぶそうだ。イエスが湖の辺を歩いているとき、魚採りをしていたペテロと弟がいた。イエスは自分に就いてきなさい、魚でなく人間を採る漁師にしてあげると説得、ペテロはイエスの弟子になった。そういうことならプロテスタントの召命のほうが分かりやすい。イエスが亡くなって3日後復活したとき、イエスがペテロに「わが羊をやしなへ」と言った、それでペテロが首位権を授かったから「首位権」と命名するのは分かりにくい、難しい。イエスとペテロの像が湖畔にある、後世の力作だろうが、格好良すぎる二人だ。

ゲノサレ博物館、ここに1986年発見された2000年前のボートがあった。木でできた小さなボート、ノミもカンナもない時代?どうして船を造ったのか、先代の人は立派である。



40分間の ガリラヤ湖クルーズ、銅鑼の音とともに日本国旗掲揚、君が代、歓迎の気持ちは分かるが違和感がある。湖上を風に吹かれて良い気持ち、デッキから湖畔を眺める、教会が散在している、のどかである。大きな湖があり湖畔は肥沃、魚は獲れる、小麦・オリーブなど農業もそれほどの苦労もしない、人々は従順だった、イエスがここで布教するには絶好の地だったかもしれない。



湖から125m登った丘に 「山上の垂訓教会」がある。周りは黄色い菜の花、アザミ、アネモネなどが湖畔に映えてきれいである。イエスの教義で有名な「幸福なるかな、心の貧しき者、天国はその人のものなり」に始まる8つの句がラテン語で書かれている。ここでイエスが説教したのをまとめたものが聖書マタイ伝に載っている。また「天にいます我らの父よ」に始まる「主の祈り」もある。「求めよ、さらば与えられん」ほか聖書の有名な句がある。イエスがここで12人の使徒を選んだ故事に習い、祝福の思想・教義がここで有り難く降臨したということだろう。

昼食にセントピーターズフィッシュ(聖ペテロの魚)を食べた。淡白な白身魚を揚げたもの、塩とレモン汁で食べるのも良いが、醤油をかけて食べると一段と美味しい。外は25℃、乾燥しているとはいえ口が渇く、ビールの味が魚で引き立つ。




昼食後昨日訪問予定のナザレに行く、1時間の無駄なバス旅行ではある。

ナザレはイエスが若いとき過ごした村、今はアラブ人の街になっている。受胎告知教会は大きな教会で新しい、1969年旧教会を立て直し完成した、40年前とは思えない斬新さがある建造物。ローマ時代から教会があった、マリアの家の跡に建てられということで信徒、観光客が大勢いる。ガイドが説明する、婚約中のマリアが天使に「見よ、あなたは身籠って男の子を産むでしょう。その子の名をイエスと名付けなさい」と告げられる。 マリアが私は未だ結婚していませんと言うと「聖霊があなたに、いと高き者のお力を授けられた、宿りし子を産まん」と告げられる。なぜ処女が受胎し子供を産むのか、仏教徒は分からないが宗教とはそういうものと諦観を持つ必要があるのかもしれない。

世界各国のカトリック教会から「聖母画」が献上されている。教会内に収まらず外に飾られている画もある。日本のものは「華の聖母子」として教会入り口近くにある、極めて日本的な桃太郎を抱いた構図である。日本の画が入り口近くにあるのは日本のカトリック教会への献身が評価されたらしい。教会の外には韓国、中国他各国のものがずらっと並んでいて壮観である。しかし紫外線他がきつい、画の退色の恐れはないのか心配である。



近くに聖ヨセフ教会がある。マリアはこの洞窟で生まれた、それを称えるために教会が5世紀には建てられたが、民族の興亡があっても今日まで聖地の教会を維持している。ヨセフが結婚する前に身籠ったマリアを離縁しようと考えていたところに聖霊が現われた、「マリアの腹に宿りし子は、聖霊によるものなり、その子を産まん、名前はイエスとすべし」と告げられ頭をかかえている大工のヨセフの画がある。

 


16時半にナザレを出発、60号、71号、90号線を一路南下する。ナザレの辺り、北イスラエルはエズレル平野で気候温暖、雨も降る、イスラエル農業の中心地であり、緑がある、草花も咲いている。しかしイスラエル南部は砂漠地帯である。90号線を走ると、死海に近づくにつれ緑がなくなり、岩また草木が小さいことに気づく、やがて砂漠に近い村が時々現われるようになる。死海の南のエンボケックのホテルに19時過ぎに漸く着いた。

2時間半バスに揺られるのは疲れたが、死海の東ヨルダンの山の上に大きなお月さんが出ていたのに癒される、今晩は満月かもしれない。滅多に月が出るのを見ることはできない、皆様はついているとのガイドの話。

 

323日(日)
 8時半にホテルを出発する。マサダに行く。

薄赤茶けた岩山と砂漠のようなところを走ると大きな岩山がある。
400mある、ロープウェイで簡単に登れるが登山道を歩いている人もいる。登りは屈強な若者でも1時間、降りは30分、暑い日差しのなかリュックを背負っている。日本人はさすが見られなかった。

頂上は死海など一望できるが、風もない、日差しはきつい、湿度は低いが草木は生えていない山、とても人間が住むところではない。しかしここに紀元前エルサレム他パレスチナの土地をローマに攻められたため要塞を兼ねてヘロデ王が王宮を建てた。模型を見てびっくりする、貯水場、食糧倉庫、浴室さらにオンドル方式のサウナ風呂まである。モザイクが乾燥して太陽が直接当たらないためか現存しているのに驚く。シナゴークもある、イスラエルで発見された最古のものらしい。

ここにエルサレム宮殿がついにローマ軍の手の落ちたため、熱心党というユダヤ反乱軍が立て篭もった。960人の篭城者に、攻略するローマ兵は3万人、3年も落城させるのにかかった。堅固な要塞であること、食料と水は豊富、士気は高いことによる。食料は小麦のほかワイン、オリーブ油、豆類、ナツメヤシなどが容器に入れられ地下倉庫に貯蔵されている。1年に何日か洪水のような雨が降る、それが12の巨大な貯水場に溜められている。

ローマ軍は400mの岩山に壮大な攻撃用の斜路を麓から築き始めた。それはローマ軍に捕虜となり奴隷で酷使されている同僚のユダヤ人によって作られた。頂上の下150mのところから巨大な塁壁を築いた。それが完成してから、投石器でグレープフルーツ大の石をマサダノ城壁に投げ続けた。やがて城壁が一部崩れるとローマ人は破壊槌で城壁を休みなく打ち続けた。それを最前線でやっているのは捕虜になったユダヤ人の同僚である。マサダの熱心党の人達も同僚を攻撃するのは抵抗があり、怯む、それがローマ軍の狙いである。急遽マサダは木の壁を張り巡らした。しかしローマ軍は松明を投げてきた、火はローマ軍の方に向いていたが、風が急に反転してきて篭城軍の方に向いてきた。木の壁だけでなく城壁内のものまで焼き尽くし始めた。

もうこれまでだ、リーダーは集団自決を決める。その時の言葉は感動的である。

「辱めを受けるのでない、奴隷になるのではない、妻と子供を見届けた後、自由を死に装束として、互いに高貴な任務を果たそうではないか・・・我々が死んだのは飢えのためではない、奴隷となるよりは死を選んだのである・・・ローマ人に我々の最後を驚愕させて、我々の勇気を賞賛させてやろうではないか」 

全員が死んだことを確かめてからリーダーは王宮に火を放ち自刃した。翌日焼け燻る王宮にローマ軍はやってきて静寂の中に横たわる遺体を見て唖然とした。集団自決を逃れたのは地下道に隠れていた5人の子供と2人の老婆である。ローマ軍は彼らから実情を聞き取り調査して、ユダヤ人の自決を驚愕と賞賛の眼で見るようになった。

この事件はローマ軍の捕虜になり転向したと揶揄されたユダヤ人の歴史家ヨセフスの「ユダヤ戦記」(全7巻)、「ユダヤ古代誌」(全20巻)に詳細に書かれている。

マサダに廃墟があるのが分かったのは19世紀になってからである。本格的な発掘調査は1963年〜65年、ヘブライ大学、イスラエル探検教会および教育文化省史跡局の後援で考古学者イガル・ヤデンがリーダーで行われた。世界各国からボランティアが何百人も集まった。発掘が進むにつれ、遺跡だけでなくその後から自決したユダヤ人の遺骨、毛髪、履物などが発見された。その他に貴重な写本群が見つかった、旧約聖書が書かれた100年後ヘブライ語で記された写本など、湿度が低く埋没されていたからか、2000年前のものが現存していたとは信じられないくらいである。

それにしてもユダヤ人の名誉にかけてマサダの歴史を書き残したヨセフスは立派である。20世紀になりヨセフスの記録した自決の人数、演説について考古学者が異論を唱えているが、もしも2千年前ヨセフスが書き残さなかったらマサダの実情は永久に歴史から葬られていたであろう。事実を克明に書き留めることがいかに重要かを教えてくれる、翻って日本の現代の実情はどうか、外交を始めとした政治・経済の実情は忠実な記録として残されているのかな?

余談ながら帰国した日に「沖縄集団自決訴訟裁判」の判決が出た。沖縄の戦争末期に軍が自決を要請したかどうかが争われた。マサダの集団自決は2千年前である、それに比べて何とマイナーな日本人同士の争いか、愕然とした。作家は何を問題にしたかったのか、事実を克明に調査したのか、平時の感覚で戦時の事を書いていいのか、敵に追いつめられたら自決する教育を受けていたその責任を問わないのか、平和ボケした日本である。

イスラエルでは多感な青春の時期に男子は3年、女子は2年徴兵される。マサダノ山頂で「ノーモア・マサダ」と聖書を左に銃を右に持ち宣誓する儀式が行われる。日本の「ノーモア・ヒロシマ」は誰に向かって叫んでいるのか、スローガンでアクションがなければ核施設は増加、危機は去らない。
 3時間ものマサダ山頂はうだるように暑くて疲れる、疲れる、ガイドが説明するときは座るが日除けのないところもある。歩いて遺跡の説明が続く、暑くてイヤホーンの声も時には念仏である。360度の死海他の眺めは素晴らしい、水をがぶがぶ飲む人と余り飲まない人、どちらが疲れるか、飲みすぎは余計に疲れると思うが。観光客を見ていると日本人の方が、よく水を飲んでいるような気がした。

午後はホテルで自由時間、死海浮遊体験、エステなどそれぞれ気ままに過ごした。浮遊体験はホテルのプライベートビーチで行う、添乗員がカメラマンになり、それぞれポーズをとっていた。死海はエンボケックの辺り塩のプールと命名されている。普通の海の水は塩分3%位だが、ここでは10倍の30%もあるとか。海水を飲まないように、眼に入れないように、仰向けで浮くだけ、泳がないことと注意があった。沖に向かって背泳ぎで恐る恐る泳いだら屈強な真っ黒な顔のビーチの管理人に途中で捕まった。言葉は分からないが浅いところで浮けという指示みたい。浅瀬の海だから立てると思ったが、それができない、腹筋が弱いのか、焦るが立てない。管理人が笑ってターンして帰れと手で合図する。ドロドロ、ヌルヌルした海の中で手を櫓にして泳ぐ。浅瀬に近いところは砂でなく小さなザラメのような石がひきつめてある。サンダルを履いて浮遊している人は良いが、脱いで浮遊した人は足を下につけたとき足裏が痛い。

ビーチのシャワーを浴びても体のヌルヌルは取れない。ホテルの中のジャグジーに入ったら、これもまたヌルヌルの生ぬるい水、気持ち悪い。中年の女性がご利益に預かろうと浸かっている、男性はいなかった。ホテルの外にプールがある、ここは冷たい水のプール。

水深150cm位かと思って、プールの真ん中まで背泳ぎで行く。上に何やらロープがある、ヘブライ語か何語か分からないが書いてある。立とうと思ったら背が届かない、ズブズブと水の中に沈む、溺れるところだった。管理人が飛んできてプールサイドで大きな声をあげる、浅いところで泳げということらしい。それにしても水深1.5mから2mとプールの底が傾斜しているのは生まれて始めての体験である、ノーモア・プールであった。

 

324日(月) ホテルを8時に出発する、今日も快晴、暑いだろう。

90号線を南に下ると死海の反対側に高さ200mのソドム山がある。これは岩塩の山、道路から少し歩くと岩塩が落ちていた。土産にと持ち去る人がいたが帰りの荷物が重くなるだけだ。ロトの妻の塩柱が名所らしい、創世紀に出てくる物語の女性。荒涼たる砂漠、その中に立つ岩塩の山に大きな柱がある、それを女性に見立てたものだがあまりピント来ない。


1時間半走るとアブダットに着く。紀元前ナバディア民族が住み、当時はヨルダンから地中海に胡椒他交易産品を運ぶ中継点の村でもあったらしい、今では遺跡である。ナバディア人は砂漠の中で灌漑に苦労し、段々畑のように上から下へ水を溜めては流す「ナバディア農法」を営んでいた。要塞からワイン造りの葡萄の踏み場、神殿、ワイン貯蔵庫など見て回る。ローマに支配され、ビザンチン時代に地震で村は廃墟になったらしい。2千年も前砂漠の中の村でよくも人々が生きていたもの、日本は水には恵まれている、草木もある、彼我の違いを想う。





近くにラモン渓谷がある。地球創生期ネゲブ砂漠で地殻変動があった、大きな割れ目ができた、500mもあろうかというクレーターの岩山の渓谷には自然の創り出した神秘がある。この辺りマクテシュラモンと呼ぶ、大小のクレーターが東西25qも続いているとの事、スケールの大きさに暑さも忘れて見とれる。ところどころの砂漠の中にオアシスが見える、自然の厳しさのなかで一服の憩いの場、生命維持の場、昔童話で見た月の砂漠のシーンを思い出す。

40号線で一路南下する、ネゲブ砂漠でイスラエル軍の軍事訓練か戦車が砂塵を巻き上げて走るのを見た。実弾発射はバスの中からは見られなかった。

砂漠の中に橋がある、一年に何回か土砂降りの雨がある、砂漠の中に川ができて車は走行不能になる。そのため道路の低いところに橋がかけてある。

40号線と90号線で砂漠の中を走ること1時間半、イスラエル最南端の街、エイラットに着く。対岸にヨルダンのアカバの街が見える。エイラットはイスラエル建国後発展した街、今や一大リゾート地である。紅海は水温が変わらず、珊瑚の生育に最適らしい。またダイバーにとっては珊瑚と魚が舞い垂涎の海らしい。




水中展望台で階段を下りる、珊瑚礁の周りを様々な魚が遊弋しているのがガラス越しに見える。珊瑚礁の数の多さと綺麗さは世界一とのこと、それは海の透明度が良いこともある。ダイバーで潜らなくても珊瑚礁と魚がまじかに見られるのは良かった。

近くのエジプト国境のタバに行く。兵士が銃をもち警備していたが平和な時代、特別な緊張感はない。

 




325日(火) 7時半にホテルを出る。
 今日も快晴である。死海に向け
90号線をひた走る、3時間かかり死海の西北部クムランに着く。クムランは1947年「死海写本」が発見されて世界的に有名になった。クムランの洞窟の中から紀元前2世紀の旧約聖書他の巻物が土器の中からでてきた。ヘブライ語、ギリシア語、アラブ語で書かれている。従来は10世紀の写本しかなかったから世界的な考古学の発見である。イスラエルの死海写本館に現物が保存されている。2千年前に人類が言葉を巻物に書き表している、驚き以外の何ものでもない。




クムラン教団はユダヤ教のなかでも極めて禁欲的な派であった。財産の共有、トーラ(律法)の遵守、共同体の規律の維持、沐浴による身体の清め、長老への服従、共同の聖餐、安息日の遵守、霊魂不滅信仰などである。死者の復活や最後の審判、天使の再来を信じ、共同体は神からの選民との意識を強く持っていた。また1年が364日の太陽暦の日時計を持つクムラン暦があり、四季があること、祭事が明確に決められていたことが分かっている。最盛期には洞窟に数千人は住んでいたとも言われているが、ローマがユダヤを攻め、クムラン教団は逃亡する。そのとき洞窟の中の壷に巻物を隠したとは立派な行為である。攻め入ったローマ人になぜ見つからなかったかが不思議でもある。壷を埋めても見れば分かったと思うが、当時の兵士には眼に入るのは略奪の有形のものしか分からなかったであろう。世界には焚書坑儒の歴史もある、クムラン教団の人達は歴史に残る偉業を果たした。

 

午後からいよいよエルサレム市内見学である。
 最初にシオンの丘に行く。エルサレムの古い街があったところ、休憩中のイスラエル新人女子兵士に会う。地べたに腰を下ろしあどけさの残る女の子には違いない。写真には屈託なくポーズを取ってくれる。

マリア永眠教会がある、2階に最後の晩餐の部屋がある。ダビンチの名画のイメージにはほど遠い。実際の場所はどこだか分からない、それはそれでよいのであろう。













 ユダヤ第2番目の王様、ダビデの墓がある。男女別々で見学、男性は紙の帽子(キパ)をかぶらされた。大きな帽子ならよいが小さすぎる、頭に載せる程度のもの、これがすぐ落ち、拾わねばならない、面倒である。










 シオンの丘から新市街を抜けて小高い山を上ると、ホロコースト記念館がある。ホロコーストの全貌を展示した歴史博物館、死者を哀悼する火が燃え続ける記憶のホール、犠牲者の子供を哀悼する記憶のホール、犠牲者の本人・家族が書かれた名前のホールを見歩く。入場無料は良いとしてもビデオ・カメラは撮影禁止である。リュックにビデオとカメラを入れて背負うのでなく前にリュックを抱きながら歩く。歩きにくい、テロ対策は分かるがホロコーストの感動がうすれるのではないか。撮影禁止にしたのは個人のプライバシーがあるかもしれない、しかし何とかならないものか。以前ポーランドのアウシュビッツで見た引込み線と貨車の復元したものがあったが、これなど撮影しても構わないであろう。それにしても記念館を建てたユダヤ民族の積年の執念には驚かざるをえない。

新市街の西の丘に国立イスラエル博物館がる。1965年開館した新名所である。エルサレム旧市街の50分の1の模型、紀元前後にこれだけの街があったとは信じられないくらい。お目当ては死海写本館、建物の外観デザインは異様である。内部は薄くらい、展示物保護のためであろう。クムランで発見された世界最古の旧約聖書、ヘブライ語辞典、イザヤ書などの巻物が展示されている。ミミズの這ったようなヘブライ文字、内容は良く2000年前の貴重な文化遺産ということは理解できる、一部でも内容の説明があればなお良いのだが。

 

326日(水) 8時にホテルを出発、ツアー最後の8日目、連日の晴天、25℃の予報。

旧市街は約1000m×700mの広さで徒歩圏内、城壁内はムスリム、キリスト教徒、ユダヤ人、アルメニア人の地区と神殿の丘に区画されている。見学は城壁に囲まれた街に入らなければならない。門が八つある、北が一番立派なダマスカス門、南の糞門から入る。聖地の神殿の丘が小高いところにある。ここでガイドがエルサレムの歴史と3大宗教(ユダヤ、キリスト、イスラム)を30分間説明する。慣れた口調で名演説に近い、女性陣には好評であった。男性陣の一部にはガイドブックに書いてあることが大半、時間が勿体ない、もっと色々なところを見たいとの声があった。

岩のドームはエルサレムのシンボル、前に佇むとその荘厳さにうたれる。ドームは7世紀に建てられ16世紀に青のペルシアタイルが8角形の外壁でドームを囲んだ。1964年鉛板のドームが金メッキのアルミに替えられ、更に30年後の1994年に屋根の葺き替えを行った。24金の金箔、80キロの金、150万ドルの費用をかけた。どこから全体の改修の金が出たか、サウジアラビア王、ヨルダン王などが1000万ドルちかくの寄付をした。そのおかげで黄金色のドームはひときわ引き立ち、市街地からも良く見えるようになった。

エルサレムでは城壁は勿論建造物は、エルサレムおよび郊外産の石灰岩を使用している。採掘したときの白い石材は経年変化で淡黄色に変わる。岩の色も朝日、日中、夕日で微妙に色彩変化する。エルサレムの建築にエルサレム産の石灰岩を使うことは、英国が第1次世界大戦およびその後の委任統治を始めたとき条例で決めてからある。英国はイスラエル対アラブの争いに3枚舌外交で今日の中東戦争の元凶のように言われるが、世界遺産エルサレムの景観維持に果たした役割は大きい。

岩のドームは残念ながら中に入れない。今はイスラムの敬虔な信者だけとか、手足を水場で綺麗に清めてから参内するとのこと、日本の神社では手を清めるが足は清めない。

 

岩のドームは神殿の丘に立ち、その西側に嘆きの壁がある。神殿の丘は約300m×450mの矩形の土地、そこは紀元前ユダヤの王様ヘロデが神域を拡張したとき西側に巨大な壁を築いた。ローマに破れたユダヤの人々は年に1回聖地帰参を許されるが、神殿は崩壊している。ローマ軍も破壊できずに残った西側の壁に、民族の未来に希望を持って再興することを2000年祈り続けた。嘆きの壁というのは西欧キリスト教徒の蔑称でもある。

それにしても西壁の石組みは凄い建造物である。まず石が大きい、横45m、縦1m余、切り出すのも運び積み上げるのに技術が要る。壁は埋没部分を含めると1921m、現在は1518m、南北の長さ60mが地上に現われている。

壁と壁の間に祈願・祈祷の紙が小さく畳まれ挟んである。壁の前で30分以上も祈りを捧げる人もいる、男性と女性に壁の祈祷所は区分されている。男性の祈祷所の壁の左側に正統派ユダヤ人の祈祷・研修室がある。

研修室の奥に更に紀元前へロデ時代に構築した水路トンネルが約500mもあるとのことでぶったまげる。現在も西の壁の南では発掘調査が進めれている、新しい史実が出てくることが期待される。

黒い衣の神職の人、イスラエルでは志願者が多い聖職である。徴兵は免除される、ひたすら、かたくなにユダヤの伝統を維持する、なかなかできないことである。建国と同時にイスラエルの公用語になったヘブライ語、これはベンイェフダーが先祖の土地にユダヤ人国家を建設する、それには国家の言葉が必要とヘブライ語の聖書から現代的なヘブライ語を案出した。母国語は読めるが話せない、日常会話はイディシュ語である。それを聖書から単語を採りヘブライ語の話し言葉にして完成し、建国後公用語として使う、それが民族のアイデンティティ確立に必須、見上げたものである。世界の歴史にないことだ。

この壁は1948年独立戦争でヨルダン領となる、19年間帰参できなかったが1967年イスラエル軍はエルサレムを奪還した。悲願を達成し、西側の密集していたアラブ人の民家は接収され、路地が巨大な祈祷所に変身して現在に至っている。嘆きの壁でユダヤ人が嘆いているのではない、神と民族の幸せを祈る祈祷所である、複雑な歴史を乗り越えた一途な民族の執念に感嘆する。

神殿の丘の南の壁は現在も発掘中で考古学ガーデンになっている。そのうち新事実が発見されるかもしれない。

 

旧市街を出て東のオリーブ山820mに上る。ここからの市街地の眺めは最高である。イエスの足跡が残るところ、ユダヤ教徒の聖地でもある。

ゲッセマネの園に行く、イエスが祈りに訪れていたところ。今でもオリーブの古木がある、たび重なる受難に耐えて2000年、パレスチナ・イスラエルの歴史とともに歩んだ木である。




 隣に万国民の教会、別名苦悶の教会がある。イエスが最後の夜を過ごしたところ。この教会は20世紀初頭に建てなおされた、モザイク画が色鮮やかである。








 幕の内弁当の昼食を食べてから、ダマスカス門から旧市街に入る。世界の巡礼者がひざまつく道「ヴィア・ドロローサ」を歩く。ローマの総督ピラトから死刑を言い渡され、十字架を背負わされ、磔刑にされたゴルゴダの丘までの道、全長1km、くねくね曲がった細い道。現在はアラブ人が土産物を商いしているところ、古い石畳の道に往時を偲ぶ。

エッケ・ホモ教会はピラトがイエスを指差し「みよ、この人なり」と言ったことに由来して2世紀の凱旋門のアーチを教会に使っている。




 ピラトの官邸が第1ステーション、第2はイエスが十字架を背負わされ、茨の冠をかぶせられ、ローマ兵に鞭打たれたところ、教会が建てられている。第3ステーションはイエスが十字架の重みで倒れたところ。第4はマリアが十字架を背負ったイエスをみたところ。第5は十字架を他人に代わったところ。第6はベロニカの教会、イエスの顔を絹のハンカチで拭いたら顔が浮き上がったという。第7はイエスが2度目に倒れたところ。第8は娘たちに「私のために泣くな、自分たち、自分たちの子供たちのために泣け」と言ったところ。第9はイエスが3度目に倒れたところ。第10聖墳墓教会内のゴルゴダの丘、イエスが着衣を脱がされる。第11はイエスが十字架に釘付けされる。第12はイエスが絶命したところ。第13はイエスが十字架を下ろされたところ。第14はヴィア・ドロローサの終点、イエスの納棺の場所。聖書に忠実によくも巡礼の場所を定め、巡礼者の意識高揚を図ったものと感心する。

       

聖墳墓教会は4世紀に建てられ破壊と再建を繰り返した。現在の建物は19世紀初頭のもの。ローマ皇帝コンスタンティヌスの母へレナは聖地巡礼で、イエスの生まれたところベツレヘムの聖誕教会についで10年後聖墳墓教会を建てた。中はローマカトリック、ギリシア正教、アルメニア教会、エチオピア・コプト教会、シリア教会に分割管理され、教会の鍵はイスラム教徒が握っている。

教会の中は巡礼者、観光客でごった返している。特に第14ステーションのキリストの墓はお参りするのに30分は並ぶ。それでも通常の日より未だましとの事であった。
 旧約聖書と新約聖書が聖書であるとはキリスト者の見方、ユダヤ教徒は律法(トーラ)などタナッハと呼ぶ。旧約聖書はユダヤ民族の言葉ヘブライ語で書かれている。新約聖書はキリスト以降でギリシア語さらにラテン語で書かれた。ルターは16世紀ヘブライ語、ギリシア語の原典からドイツ語訳に成功し、活版技術のおかげで聖書は普及した。仏教も釈迦の弟子たちが聖書なみの経典を残したが、言葉で残さなかった、口伝によるので普及は国別に遅れたらしい。紙に書いて残すことがいかに重要であるかを再認識したツアーであった。

ヤッホー門から出てホテルに帰る、これでツアーの観光は終わった。明日は日本に向けてタシケント経由で成田に帰国するだけである。それにしても歳のせいか今回は疲れた。

3大宗教のメッカを詣でた、ご利益はあると期待したい。

 

参考文献

「地球の歩き方」 イスラエル  ダイヤモンド社

「イスラエル・中近東」 JTBポケットガイド  JTB出版

「マサダ」  エリコーキルベットクムランーエインゲディ 中嶋訳 ボネキ出版

「物語 イスラエルの歴史」  高橋正男  中公新書

「イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策」T・U  

   ジョン、スティーブン共著、副島訳   講談社


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