蓮如上人の三河布教 本文へジャンプ


 
 小さいとき祖父から蓮如さんのことを聞かされたことを覚えている。しかし蓮如が三河に来た事実はないとか言う学者もいた。さすが今はいないがそれでも
1回限りと言う学者も多い。GW後半に西三河のお寺巡りをしてみた。

 古地図に蓮如について確かな伝承のあるお寺をプロットしてみた。500年前は碧南市にある油ヶ淵は海につながり北浦と呼ばれた。外航船は大浜まで、内航船は西端まで入ることができた。鷲塚は小高い孤島でこんもりしていて鷲が棲みついていたとも言われる。西端は交易で賑わい小さな寺内町でもあった。大浜は大坂などと交易していた寺内町である。

 蓮如は本願寺を破却され湖東を転々としていた。西端出身の如光は蓮如の法弟であり法名は蓮如がつけた。本願寺再興のために如光は蓮如を助けた。三河は下野の専修寺系の真宗である。何とか本願寺系に替えることはできないか。越前、越中は三河から出た真宗門徒も多い。何とか本願寺系に出来ないか。

 蓮如は畿内、東海、北陸を彷徨った。東海はもちろん、北陸も如光が案内したと思われる。西三河に赴いた、碧南市の図書館で地図を貰う。へきなんタウンマップは大浜てらまち地図が書いてあるが、西端・鷲塚はものたらない。ウォーキングマップには「湖の西端」「水の鷲塚」にお寺が細かく書いてある。何れも住所・電話番号が明記されていない。電話番号があってもナビに登録されていないものがある。車、携帯で検出できるようにするのが観光案内の常識である。

 早朝大浜てらまち地区を散策した。電話番号頼りにナビで案内してもらうが駐車場のない寺もある、番号で検出できない寺もある。道路に○○寺の方向と距離を書くのが観光都市を目指しているのなら当たり前と思うが。市内循回無料くるくるバスで高齢者に優しいのはよいが、財政豊かなら観光客にも優しくしてほしい。

 500m平方の街に10寺もある。境内が大きいのが称名寺、時宗の寺である。500年前は商業、工業の職人は時宗が多かった。蓮如も訪れて吃驚したであろう。北陸は時宗が多い、如光と時宗を真宗の本願寺に宗旨変えする方策を考えたのではなかろうか。

 油ヶ淵北にある西端の寺巡りをした。如光に案内されて西端道場に下向した蓮如は「六字名号」「正信偈文」を与えた。「応仁寺」と「栄願寺」に道場は後に分かれた。「蓮如上人寿像」とか「蓮如上人絵伝」があるのは何回も蓮如が下向したからであろう。「如光堂」もある、如光の謂れがあまり明確でないのは残念である、明治村史、碧南・安城・岡崎市史にも書かれていない。親鸞聖人と同じ、書けない、書きたくないことが如光にもある。

 西端道場から海を眺めて、蓮如は海とか湖に近いところが本願寺再興の地に相応しいと考えたのではなかろうか。鷲塚のこんもりした島は北陸の北潟湖に浮かぶ吉崎の鹿島を彷彿とさせたのではないか。西端は交易の町でかなり繁盛した、遊女もいたらしい。繁盛しなければこれだけの寺は維持できなかったであろう。
 西端道場に蓮如が逗留する、延暦寺の追っ手が来るかもしれない。如光が頼んだであろう、越前・加賀から堀造りの応援団が馳せ参じ道場の堀を造ったとか。残念ながら今はその痕跡がない。
 蓮如は西端から船で米津に行き、木戸まで歩き、矢作川の船に乗った。野田の本証寺、さらに矢作の上宮寺など専修寺系の寺
々を本願寺の東海地区中核寺院にすべく奔走した。如光は蓮如の右腕として先導した。それぞれの寺は小さいながら寺内町を持っていた。やがて蓮如は直系の本宗寺を矢作川右岸の土呂に創建した。

 鷲塚の寺を巡る。西端よりはお寺が多い。鷲塚御坊と言われる願随寺に四天王寺名入りの大きな鬼瓦が置いてあったのには驚いた。本堂再建中であり取り壊した時に見つけたものであろう。大坂と関係が深かったのは内海で交易が盛んであった証拠。それにしても在来工法で本堂を再建するとは財力がある、千万円単位の寄付には感心した。

 池端蓮成寺に教行信証20冊本とかがある。蓮如に帰依し法名をもらい道場を開いたとか、それにしても延書本があるのは凄い。

 天満神社は標高10m余、見晴らしが良い。ここから船が西端まで通うのを蓮如と如光は見ながら、百姓は大切だが商工業者も金蔓としては大事にしなくてはと思ったことであろう。

 貞照院に「一切経」と経蔵があるのには驚いた。元禄時代創建だが伏見新田開発で潤い寄進したのであろう。

 高浜市にある専修坊にも蓮如の名号がある。田植えをしている百姓に名号を与えたとか言う謂れもある。

 

 如光と蓮如は三河に何回も足を運んだ、少なくとも3年間は。そのまえに如光は越前に行き本願寺再興の地を吉崎と定めたと思われる。

 蓮如と如光について更に調べてみたい。