傘寿の富士世界遺産巡り

   

世界遺産ブームも終わったのではと、10月上旬東名高速工事が終わる時を見計らってドライブに出かけた。横浜から清水インターまで工事渋滞が一部あったがまずは順調。三保の松原の駐車場に着く。プレハブの案内所がありパンフレットを貰う。10月というのに車の外は30度、暑くて白砂青松の砂の上を歩いている人は少ない。日陰の松林の中を歩く、途中で富士山が綺麗に見えた、ただし頂上に雪がない。台風が来て溶けてしまったのは残念だ。7qの海岸線に3万本の松が連なるそうだが途中で松林の中を引き返した。小さな松を植樹中である、景観保存の一環か。台風、時には津波もやってきた、松くい虫の被害もなく今に残っているのは珍しい。

 興津の清見寺に行く。世界遺産ではないが雪舟が描いたとされる「富士三保清見寺図」には三峯型富士山の左下に岩山と清見寺が三保の松原から見たように画かれている。水墨画として富士の逸品で江戸時代の画家は手本にしたと言う。清見寺の総門は古色蒼然で風情がある。室町時代には五山十刹の一つであったが荒廃した。今川義元が再興し、軍師太原が寺の一世。家康は人質時代ここで学んだ。境内の庭園と五百羅漢は一見の価値がある。藤村の小説「桜の実の熟する時」にも登場している。東海道線が開通して寺は南北に分断された。

 清水から東名に入り新東名の新富士で降りる。浅間大社に行く、全国の浅間神社1300の総本宮であり、富士山の八合目から頂上までの地主でもある。歴代の朝廷、将軍に敬われたらしい。家康が関ケ原戦勝記念に建てた2階建ての朱色本殿は桜の木300本に囲まれている。江戸時代は富士講で江戸八百八講と言われるほど富士登山は隆盛になった。富士登山はブームで登山道は整備されて誰でも登れるようになったが、富士山信仰はあまり受け継がれていないばかりか知られてもいない。近くに村山浅間神社がある、その他世界遺産には全部で八社の浅間神社が登録されているが全部は観きれない。

 大石寺に行く。日蓮正宗総本山で広大な伽藍には驚く。日蓮二祖の日興が建立したと言われるが、地頭の外護を受けてこれだけのものが出来るのはよほど財力があったのかな。御影堂、五重塔も全国を勧化した浄財で出来たといわれるが、実情は全国の殿様・豪族からの寄進でしょう。それにしても「南無妙法蓮華経」という題目の威力は凄い。近くの身延山腹に日蓮宗総本山身延山久遠寺があることも与っていることでしょう。

 近くの北山本門寺に行く。大石寺は日興が1290年、本門寺も日興が1298年開山した名刹である。正式な名前が富士山重須法華本門寺根源と長ったらしい。仁王門をくぐるとまた門がある、大きな伽藍である。国道469号線に分断された南側に1910年に焼失した伽藍跡がある。

 休暇村富士に急ぐ、人造湖の田貫湖畔にある。ホテルは富士山に向けて建ち、部屋から朝晩富士が観られると期待したが、生憎曇り空で見えなかったのは残念である。伏流水の水はおいしかった。温泉は千米掘削したらしい、無臭の単純泉であるが、肌がすべすべする。夕食も朝食もバイキング、年寄りには面倒だな。

 天気予報は晴れだが朝から曇天、富士スバルラインで樹海台、大沢、5合目と上る予定は雲上である、何も見えないとのホテルのアドバイスで諦めた。富士五湖ドライブに切り替えた。その昔半世紀も前か、家族連れで富士スカイライン5合目につき、表富士に登り始めた。8合目で小学生の長男が高山病にかかり砂走りで降りた。余りにも早く降りたので富士五湖ドライブをしたことがある。道は狭く渋滞してうんざりした。今回のドライブ、道路は良い、おまけに空いていて1時間で回れた。

 139号線の富士吉田IC近くに、「富士山世界遺産センター」があるとは知らなかった。20166月開館である。早速入館したが誰もいない、貸し切りであるのに驚いた。館員は親切で女房に車椅子を用意し、丁寧に説明してくれた。富士山の山容をオブジェで表し、遥拝も体感できる優れもの。信仰の対象である富士の解説も分かりやすい。富士山の絵画は楽しめた。登山路の紹介を見て昔の石ころの山道でなく階段もある整備された山道に驚いた。この登山道なら8合目で泊まれば後期高齢者でも登れるのではないかな。それにしても2時間余知的好奇心を満たすことができた、館員に礼を言って後にした。

 忍野八海、人穴富士講遺跡、船津胎内樹型など現地現物で見たかったが、くたびれてきた。東名が工事渋滞かもしれない、早く帰ることにした。東富士五湖道路を快適に走る、御殿場で唯念寺・唯念名号碑とか題目碑を見たかったが、東名に乗り帰路についた。渋滞通過に30分くらいかかったが、富士山ドライブは良い思い出になった。メーターは400qを指していた。

 「富士山―信仰の対象と芸術の源泉」は2013年世界遺産に登録された。25もある構成遺産を全て見たわけではないが、感じたことを記したい。

 富士五湖のうち西湖、精進湖、本栖湖は自然が残っている。しかし河口湖、山中湖は何故遺産か首を傾げる。そもそも富士五湖という名前は富士急行の社長が思いつき、株主を動員して決めたもの。マーケティングとしては優れるがレジャー基地、観光資産ではないのか。本栖湖は水深121mで透明度抜群、千円札に1935年撮影した岡田紅陽の逆さ富士が載るくらい、これは納得できる。西湖、精進湖も自然遺産としては価値があるでしょう。

 浅間神社は富士信仰との関わりで遺産登録は理解できる。しかし8社ある浅間神社もそれぞれ歴史がある。とくに御師について過大評価ではないのか。伊勢神宮にも外宮と内宮の間に御師の街がありこの世の垢を落とす歓楽街があった。御師は観光斡旋業者でもあった。

村山口では寺が建てられ修験道により登山者は管理されていた。浅間神社の神主の代理で祈祷する御師に管理されていたのとは違う。富士講も江戸時代盛んであったが河口より江戸に近い富士吉田が隆盛になった。御師は富士登山名目の積立金斡旋業者、宿泊施設提供者であり宗教色は薄れてきたとも言う。「三島女郎衆以上に財布が空になった」「伊勢乞食に富士泥棒」と御師の評判が悪い人も多々いた。富士講は時々弾圧されたが、食えないから嘆願書など出して生き延びた人もいる。それでも明治維新になると廃業させられた。

信仰の対象である富士山、その通りだが信仰は庶民にとり純粋なものでもない。仏教者、神職が真面目に取り組んでも信者が増えないことは富士山の信仰の歴史でもわかる。北斎とか広重など江戸時代の画家に影響を与えた室町時代の水墨画で雪舟伝と言われる「富士三保清見寺図」は三峯型富士の逸品である。清見寺の寺も描き霊峰富士を描いたのは信仰の拠り所にもなった。室町時代末期の「富士曼荼羅図」には俗界から富士に登る導師、行者が寺坊に泊まり、神社、寺を経由して富士山頂上に登る様子が描かれている。三峯の頂上には真中が往生極楽を願う阿弥陀如来、左側が薬師如来、右側が大日如来であり密教の山でもある。「黒駒太子像」は聖徳太子が黒駒に乗り登山した様子が描かれた浄土真宗の礼拝画である。畏怖と崇敬が信仰に結びついたのが富士山といえよう。

富士に登山できたのは一部の人で庶民には縁遠い。明治維新までは神仏混交であった。浅間神社でも廃仏毀釈で寺は壊されたのもあるが、残っている神社もある。庶民は登らなくても富士信仰はあった。現世利益でなく浄土を求めるのは何時の時代でも同じ。江戸時代富士信仰が盛んであったが、念仏講も盛んであった。駿河、相模、豆州、甲斐など4か国に建てられた「南無阿弥陀仏」の名号碑は千有余と言われる。唯念上人が江戸末期、仏の道を説き念仏を唱えることが浄土に行く術であると、念仏講をつくりながら布教したからである。唯念寺は増上寺本山の末寺でもある。富士信仰のあるところでは、仏教心も多々あったと思われる。日蓮宗関係の寺も信者もダントツに多い。そういえば世界を震撼させたオウム真理教の富士山総本部も1988年道場が建てられた。霊峰富士を仰げば、理系の偏差値の高い人も宗教心が弥増すのであろうか?

最後に噴火について触れたい。阿蘇山が火を噴いた、御岳山も爆発した、いずれも若かりし頃登ったところ、犠牲者が出たのには心が痛む。富士山も過去何回か噴火した。大きなものでは1707年の宝永の大噴火、864年の貞観大噴火。小さなものでも過去100年で12件位。現在の霊峰富士山でも醜いところはある、西側の大沢崩れは観る者をぞっとさせる。山頂から5合目まで2.1q、最大幅500m、深さ150mの裂け目がある。しかも毎年15万uが崩壊している。岩砕(軽石)の流出と溶岩の崩れである。大規模な噴火があれば溶岩で大沢崩れは埋まるかもしれないが、規模により地元だけでなく他県まで影響が出るであろう。東名とか中央高速などの道路、新幹線などインフラがやられたらその被害は全国に及ぶ。富士山は活火山であることを心に留めておきたい。

             2016.10.10 書く
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