親鸞
親鸞の出自が分からない、それは自らを書きたくなかったから。「教行信証」で阿闇世王についてくどいほど言及している。親を殺しても救われるにはが、親鸞終身のテーマである。それは親鸞の家系が親殺し、肉親殺しと関係しているのではないか。親鸞の母親は義朝の娘、頼朝と義経は伯父では。
恵心尼は下級貴族の娘で九条家に給仕、流罪の親鸞について越後に赴いたと言う説、豪族の娘で越後で結婚したとか諸説あるが、違うのではないか。
親鸞が妻帯したのは法然の指示であり、法名親鸞も法然と別れた時賜った。
流罪が解けてから、常陸に向かったが、その前に京にあがり法然の墓などに詣でたのではないか。その時兄弟子聖覚に会い、性信を紹介されて鎌倉・善光寺経由で越後に帰ったのではないか。
常陸に赴いたのは善光寺聖仲間の性信、真仏、順信がいたことが大きい。稲田の草庵は法然の弟子宇都宮頼綱の支援による。
唯円は宇都宮家の出先である常陸府で親鸞の弟子になり大山の草庵で布教したのではないか。「歎異抄」は親鸞の言辞とその異端を書いたものである。
親鸞が京に帰ったのは、念仏禁止の動きが急であり、南都北嶺の高僧の論難をかわすため「教行信証」の大幅な改造を思い立ったから。恵信尼は越後の実家の相続で頭を痛めていたので夫婦は別れ別れになった。
善鸞義絶など家庭的には恵まれなかったが、自ら凡愚と言い、高弟・門徒衆を同朋と呼ぶ。90歳まで浄土の真宗を究めんとする使命感とその心意気には惚れ惚れとしたものがある。
気難しい親鸞を支えた恵信尼は坊守の嚆矢である。恵信尼会館で平仮名の無量寿経を見て、また残された恵信尼文書を読み、気高き教養の高さに驚く。 |