真宗は一日にして成らずー親鸞と覚如・存覚ー 本文へジャンプ
   柴浦雅爾著  四六版350頁  講談社ビジネスパートナーズ
            2012年6月   定価1500円(税別)


     
著書内容紹介  「真宗は一日にして成らずー親鸞と覚如・存覚ー」

前篇 「親鸞ー真宗を究めるー」
後篇 「覚如・存覚ー真宗の礎を築くー」

 衆生を浄土に誘うため動乱のさなか粉骨砕身した高僧の生きざまに混迷の今だからこそ学びたい。
 戒を破り妻帯した親鸞には恵心、覚如には善照、存覚には奈有、仏光寺の
了源には了明という内助の功として支えた坊守の存在があった。

親鸞
 親鸞の出自が分からない、それは自らを書きたくなかったから。「教行信証」で阿闇世王についてくどいほど言及している。親を殺しても救われるにはが、親鸞終身のテーマである。それは親鸞の家系が親殺し、肉親殺しと関係しているのではないか。親鸞の母親は義朝の娘、頼朝と義経は伯父では。
 恵心尼は下級貴族の娘で九条家に給仕、流罪の親鸞について越後に赴いたと言う説、豪族の娘で越後で結婚したとか諸説あるが、違うのではないか。
 親鸞が妻帯したのは法然の指示であり、法名親鸞も法然と別れた時賜った。
 流罪が解けてから、常陸に向かったが、その前に京にあがり法然の墓などに詣でたのではないか。その時兄弟子聖覚に会い、性信を紹介されて鎌倉・善光寺経由で越後に帰ったのではないか。
 常陸に赴いたのは善光寺聖仲間の性信、真仏、順信がいたことが大きい。稲田の草庵は法然の弟子宇都宮頼綱の支援による。
 唯円は宇都宮家の出先である常陸府で親鸞の弟子になり大山の草庵で布教したのではないか。「歎異抄」は親鸞の言辞とその異端を書いたものである。
 親鸞が京に帰ったのは、念仏禁止の動きが急であり、南都北嶺の高僧の論難をかわすため「教行信証」の大幅な改造を思い立ったから。恵信尼は越後の実家の相続で頭を痛めていたので夫婦は別れ別れになった。 
 善鸞義絶など家庭的には恵まれなかったが、自ら凡愚と言い、高弟・門徒衆を同朋と呼ぶ。90歳まで浄土の真宗を究めんとする使命感とその心意気には惚れ惚れとしたものがある。
 気難しい親鸞を支えた恵信尼は坊守の嚆矢である。恵信尼会館で平仮名の無量寿経を見て、また残された恵信尼文書を読み、気高き教養の高さに驚く。
覚如と存覚
 本願寺を興したのは覚如である。東国の親鸞高弟からは留守職は認められず難儀した、息子の存覚に早々と譲り状を書き隠れ隠遁した。大谷廟を本願寺にして末寺を従える、血脈・法脈伝持を謳い孤高な一生であった。女性問題もある、2回も存覚を義絶している、唯善の廟堂乗っ取りに懲りている、僧にはあるまじきと今も真宗十派の中では本願寺3世を認めない派もある。
 存覚は本願寺4世にはならなかったが、名誉を捨てて南北朝の戦乱の中、布教に邁進したのは僧侶の鑑である。数々の経典を著した。仏光寺が本願寺を上回る門徒衆を獲得したのは、開祖了源を存覚が支援したからでもある。了源の坊守了明は息子の死後仏光寺教団の3世を継いでいる。存覚の坊守奈有は東奔西走する存覚を支えて3男3女を育てた。子息には「光」の字をつけている。
 存覚は宗祖親鸞の「安城の御影」をみて、火鉢とか杖を描かして修行中、また荒野の伝道を偲ぶ老僧に畏怖の念を覚え、宗祖にますます傾倒するようになった。
 「歎異抄」は覚如は禁書としたが、存覚は「教行信証」も禁書扱いにした方がよい、難しすぎると思っていた。しかし曹洞宗には分かりやすい経典がある、それもあり異議異端は少なく教団の統制がとれている。本願寺の行く末が案じられる、「教行信証」の解説書である畢生の名作「六要鈔」を著した。
 後に蓮如は部屋住み時代、存覚の書いた「六要鈔」を読まずして「教行信証」を読むなかれと言った。「安心決定抄」ともども3度も破れるまで読んだ。
 覚如と存覚いなかりせば、親鸞の法脈は亜流、濁流に渦巻いていたであろう。
その後について
 親鸞750大遠忌で親鸞の実像解明は進んだ。しかし残された問題も多い。想う所を纏めました。こちらにどうぞ「親鸞実像研究に想う」