*アンカラ*
2007年5月19日、この日は青少年記念日、アタチュルク記念日で土曜日と重なり人出が多い。朝の5時に寝て10時出発で皆さん、寝ぼけ眼で市内観光に出かける。
トルコの首都はイスタンブールと思っていたが、アンカラであった。U社のパンフレットにも、「アテネとイスタンブールは両国の首都」と間違っている、旅行社でも。
アンカラは柔らかい毛で有名なアンゴラ羊の放牧と交易で有名な街であった。ローマのシーザーが攻めてきてローマ帝国に併合された。その後幾多の戦いに翻弄され羊の街に戻ったが、トルコ独立戦争のときアタチュルクはトルコの中心ということで人口3万人のアンカラに暫定政権を樹立した。戦勝記念で1923年アンカラを首都と宣言した。アタチュルクは日本の目覚しい成長・発展に範を求めた。憎きロシアを日本が日露戦争でやっつけたこと、明治維新の輝かしい成果をみて国民に「日本を見習おう」と呼びかけた。アジアの西と東、有無相通ずるところがありトルコは今も親日的である。アタチュルクは都市計画の専門家を招きインフラ確立に力を注いだ。そのおかげで70年も経たないうちに人口3万の街が人口400万の都市に変貌した。バスの車窓から見るだけではとても400万の都市には見えない。日頃見慣れた横浜が350万都市、それよりも人口が多いとは驚きである。シーザーも2千年後のアンカラには、墓場の陰からびっくりして観ていることだろう。
アナトリア文明博物館
謎の多い先進民族ヒッタイト王国時代の遺物が中央ホールに展示されている。旧石器時代から始まり新石器・銅・青銅時代と続く。アナトリア(小アジア)の掘出物の数々、ビデオ、カメラに納めるが、知識の乏しいものには良くわからない。古代の名品を垣間見たということに留まる。
アタチュルク廟
広大な丘の上からアンカラ市内が一望できる。アタチュルク記念日でもあり荘厳な廟は賑わっていた。帽子を取り衛兵の見守る中、廟に入る、涼しい。大理石の建物、おまけに天井が物凄く高い。一番奥のアタチュルクが眠る石棺の上には巨大な大理石の慰霊碑がある。献花が絶えない、その前で写真を撮るトルコ青少年の可愛さ、あどけなさが心に残る。
それにしても1938年ドルマバフ宮殿でアタチュルクが急死してから1953年廟に葬られる。トルコ救国、建国の父にしては時間がかかりすぎる。人の評価は時とともにということか、金が無かったのか、定かではない。遺品の数々を見ようと思ったが、トルコ青少年が並んでいる、展示室は見るのを諦めた。
*カッパドキア*
アンカラから東南250㌔の山岳地帯がカッパドキア。バスの車窓から見る風景は不毛な広漠たる丘陵地帯と思ったが、さにあらず、ミネラル分を多く含む火山性の土壌で肥沃でもある。昔から葡萄など果樹園が多く、ワイナリーもある農業地帯であるが、今は世界中からやってくる観光客ビジネスのほうが忙しい。標高千mの山岳地帯、南50㌔のところには4千、2千、3千の山が連なる、山岳国立公園もある、画になる風景が広がる。
地下都市カイマクル
岩窟地下住居はカイマクルとデリンクユがある。カイマクルのほうが小さい。豆電灯が点いているが、足元は暗い。懐中電灯で足元を照らして地下にもぐる。150cm位の一人しか抜けられないところもある。屈んで歩くのは思ったより疲れる。馬小屋、教会、食料庫、ワイナリー、岩の防衛扉、寝室、台所が地下4階までにある。
カッパドキアの地下都市は小さいものを入れると30くらいあるらしい。それが地下で繋がっている、発掘は全部行われてないとのことである。紀元前の時代から造成され、数万人が地下都市で半年近く生活できたと聞いてにわかには信じがたい。ローマ時代アラブ人に攻められてキリスト教徒が住んだというが、謎が解明されていない迷路のような地下岩窟都市である。
ウチヒサール
カッパドキアでは標高が高いところ、荒涼とした景色が続いている。大きな岩に穴があいている、昔は人が住んだらしいが、今は鳩が住んでいる。糞は窒素・燐酸・カリの内、カリを多く含む、葡萄の肥料としては最高で、今も肥料として集荷・撒布されている。
写真用に駱駝がいたり、遠くローズバレーが望めるなど、観光バスの写真ストップ場所である。
ギョレメ野外博物館
4世紀頃からキリスト教徒が住んでいた。洞窟教会にフレスコ画がかかっている。保存状態の良くないものもある、修復には金がかかるのか、そのままにしてある。林檎とか蛇などの名前がついた教会が7箇所もある。直射日光の下、高低差のある岩窟教会を見て歩くのは疲れる。
トカル・キリセが野外博物館の外にある。入り口が狭く光が入らなかったのか、湿度が低かったのか、見物者が少なかったのか分からないがフレスコ画の保存状態が良好である。キリスト奇跡の物語が描かれている。
イスラム教徒が攻めてきて圧迫を逃れてキリスト教徒がギョレメに集結したと言うが、修道院も男子、女子それぞれある。なぜ滅ぼされずに済んだのか、偶像崇拝禁止のイスラム教徒がフレスコ画をなぜ破壊しなかったのか、良くわからない。
暑さのせいか、野外の店のビールとチューインガムのように伸びるアイスクリームが良く売れている。
奇岩3人美女
トルコリラ札に印刷されている奇岩で写真ストップ。
民家訪問
洞窟スタイルの民家を訪問した。嫁さんと孫も出てきて、トルコチャイでもてなしてくれた。ガイドにトルコの生活全般について質問が出る。旦那と息子が稼いでいるということだが中古の洞窟スタイルの家はトルコではかなり高額の物件。食料品は自給自足に近く安いかもしれないが、借金の返済は大変だろう。イスラムでは金利はご法度、それなりの返済計画があるらしい。
アヴァノス陶器工房
トルコ最長の川、1.3㌔の上流にアヴァノスがある。そこで採れる赤土と白い石灰質の土を使った焼物の昔からの伝統産業が点在している。足回しのろくろでティーポットを造る実演があった。日本人は上客、展示室で即売会があったが余り皆は買わなかった。
ブルーの焼物は日本のものとは味わいが違うように思う。
ゼルベの谷
キノコ岩が林立している、写真ストップ。戦前まで人が住んでいたが、戦後になり危険なので村ぐるみ移転した。
ローズバレー
夕日で谷が赤くなるとのこと、駐車場から思い思いに散策する。日没が19時半、幾ら待っていてもそれほど赤くならなかった。様々な岩が重なり合っている、一本道を行けるところまで丘の上を歩いていく。見物時間が1時間もある、ぶらぶらしていたが同行のツアー諸氏は早々にバスに引き上げたらしい、一人も居なくなった。谷よりもむしろ夕日が問題、夕焼けが綺麗なら谷も映えるのだろう。それでも1時間の色の変化はパソコンの19インチモニターで見るとはっきり分かる。
シルクロード隊商宿
カッパドキアから西進する、シルクロードの中継点に隊商宿がある。駱駝の部屋から男女別の部屋、トイレ、商いのためのアーケード、雑魚寝の部屋、中央に礼拝所まで揃っている。隊商達の交易・安息・情報交換の場所であった。トルコのシルクロードにこのような隊商宿が40以上あったらしい。
*古都コンヤ*
アンカラの南250㌔、カッパドキアと三角形の一点の位置。その昔セルジュク朝時代の首都である。トルコ・イスラム芸術を偲ぶことができる。小さな街だが人口220万人、イスタンブール1千万、アンカラ400万、イズミール340万に次ぐ大都市だが車窓から見る限り小さな都市である。
インジェ・ミナーレ神学校
13世紀インジェ(細長い)、ミナーレ(尖塔)の神学校として設立された。当時は神学だけでなく天文・科学などの高等教育機関であった。落雷で塔は崩壊したが、建物に施されているコーランのアラビア文字や幾何学模様が芸術化されて燦然と輝いている。今はイスラム関係の彫刻の博物館になっている。
メヴラーナ霊廟
踊るイスラム神秘主義宗教メヴラーナ教の総本山。6千㎡の広大な敷地に霊廟、資料室、修行場などがある。アタチュルクの政教分離策で教団は解散して今は博物館になっている。それにしてもくるくる何回も周る、踊り疲れて恍惚状態になり神と対話する。コーランのほかに
「私のもとに来なさい、無心論者でも、偶像崇拝者でも・・・構わないから来なさい」
「あなたが外から見えるのと同じようになるか、内面と同じように見えるようになるか・・・」
の名文で信者が増えた。日本でも踊る宗教に浄土系の時宗があった、藤沢の遊行寺が総本山である。宗教とは曰く不可解のものである。
*ヒエラポリス*
紀元前2世紀に造られた街、ローマの支配が色濃く残る街でもあった。石灰棚の上の丘陵地、ギリシア語のヒエラポリスという名前、アポロ神殿、アゴラなどギリシアの匂いもする。人口10万人の大都市も14世紀大震災で瓦解した。
円形劇場が丘の上にある、砂利の坂道20分かかる。直径100mの半円形劇場、1万5千人の収容力、碑文や像が飾られている。大地震にもめげずによくも残ったものだ。
劇場上からはヒエラポリスの遺跡が全貌できる。温泉が噴出していたからか浴場が二つもある。一つは今も温泉プールになっている。
ネクロポリスとは死者の町を意味する、3箇所もある。古代遺跡に千人を越える墓が現存するのは極めて珍しい。しかも宗派を超えた墓がある、墓の大小で貧富の差はあるが同じところに葬られている。
*石灰棚パムツカレ*
パムッカレとは「綿の城」というトルコ語。段々畑のような棚田が広がっている、下から上まで最高300m、幅は千mに及ぶ。靴を脱いで棚田に入る人が多い、足湯でもある。炭酸泉でリュウマチ、高血圧、美容に良いというが面倒なので入らなかった。
丁度夕刻で茜色に映える石灰棚は一幅の画になる。しかし朝は青白いらしい。
温泉プールで泳いでいる人がいた、綺麗に咲いた花の間を抜けてゆく、気持ちよさそうだ。
*セルチュク・エフェス*
パムッカレのホテルを出て一路西進する、ざくろの花が咲いている、オレンジ色で綺麗だ、オリーブの木々が植わっている。オレンジの木もある、トマトのビニールハウスもある、やがてセルチュクの街にさしかかると紺碧のエーゲ海が見えてきた。古代都市遺跡の街のエフェスの観光起点である。
聖母マリアの家
セルチュク郊外の小高いブルブル山の狭い道をバスは登る。聖母マリアはイエスの死後聖ヨハネとともにこの山に移り住み、余生を送ったという。マリアの最後は謎であったが19世紀ドイツの修道女が石造りのマリアの家の場所を書きとめていた。それをもとにイズミールの司教が探し当てた。マリアの家の跡には小さな教会が建っている。ローマ法王も二回訪れている。聖地にもなっているためか、観光客が入るのに行列ができている、キリスト教徒には迷惑だろう。
日本のおみくじみたいなものが壁に吊るしてあった。トルコでは布の切れ端を小さく切って建物に結び、祈りを捧げる風習がある。
松くい虫を避けるためか、木の根本近くに石灰が塗ってあった。
聖ヨハネはこの地で伝道して亡くなり、そこには聖ヨハネ教会が建っている。
*エフェソス遺跡*
ハドリアス神殿 | ドミティアヌス神殿 | トラヤヌスの泉 | 音楽堂 | 公会堂 |
ポリオの泉 | ニケのレリーフ | セルスス図書館 | ローマ浴場 | 大理石の港通り |
前11世紀エーゲ海の天然良港に都市国家ができた。しかし港は土砂崩れ、前3世紀近くの盆地エフェソスに遷都した。その後ローマに滅ぼされ、クレオパトラもアントニウスとともにここで過ごしたとも伝えられる。
最盛期20万人もいたといわれるトルコ最大のローマ遺跡、ギリシア・ローマの香りがする。100年も前からの発掘調査が今も継続して行われている。
小雨が降ってきて下が大理石、滑りやすい。南の入り口から入ると下り坂なので余計神経を使う。大きな傘を子供がさして金をねだっている、ビデオ・カメラを撮るには片手で傘をさして濡れないようにしなければならないから重宝であるが、同行の諸氏はみな断っている。
4キロ平方のなだらかな丘陵地、休むところも無い、雨は本降りになってくる、足元不如意、カメラとビデオが嫌に重く感ずる。
アゴラが二つもある、一つは80m×160m と大きく中央に神殿がある。政治・集会の場であり文化・宗教の場でもある。一つはバザールで商品物々交換の場。ギリシアのアゴラが真似て造られている。
浴場も二つもある。ローマ風の温冷水浴、サウナ・マッサージもあった。誰でも入場でき、日本の銭湯みたいなスケールの大きい社交場であったらしい。
神殿が多い、中でもハドリアヌス神殿は繊細な彫刻が残されている、2世紀の豪華な神殿が偲ばれる。
図書館がある。大きな建物、彫刻もある、一部復元されたものだが、遺跡の中では際立って大きい。知識・運命・聡明・高潔を象徴する女性像の複製が立っている。1万冊の蔵書があったらしいが3世紀に焼失した。
大劇場がある。3世紀に造られた、高さ40m広さ160mの半円形劇場、収容人員2.5万人、今でも使われている。最上階からの眺めは遺跡を見渡せて素晴らしい。
通りが整備されている。中でも港通りは幅11m、長さ500m、両側に商店が並んでいた。石畳、一部は大理石である、紀元前に造られたとは都市計画が既にあったということ、凄い。
娼婦の館、公衆トイレもある、上下水道があったことに驚く。市公会堂、市民劇場、公共の建物が多い。個人の住居跡は一部残っているが高級住宅であった。残念ながら庶民・大衆の住居跡は定かではない。10万人以上は住んでいたのに痕跡が無いのは寂しい限りである。
アルテミス神殿
エフェス遺跡の北に柱が一本立っているだけの神殿跡がある。7回も破壊されて、7回も再建された曰く付の神殿。紀元前7世紀から建築に100年以上かかった。最盛期直径1.2m、高さ19mの大理石円柱が127本立っていて、アテネのパルテノン神殿より大きかった。6世紀に破壊された神殿跡より大理石の柱・石材など運び出されて教会やモスクに使われた。
有名なところではイスタンブールのアヤソフィアにも一部使用されている。
エフェス考古学博物館
遺跡からの2.5万点の中で千点が展示されている。ギリシアではアルテミスはゼウスの娘で狩や月の女神、トルコでは豊穣・多産・生殖の女神に変る。エフェスの市庁舎跡から出土した大アルテミス像は高さ2.9m、小アルテミス像は170cm。体にいろいろなものが付着している。蜜蜂・鹿はよいとして、卵型のものは何か。乳房という説と生贄に捧げられた牛の睾丸であるという説がある、何れも多産・生殖のシンボルである。
大アルテミス像 | 小アルテミス像 | ニンフ像 | 考古学博物館 |
見学中に停電があった、余りパニックは起こらなかった。建物に雨が漏る、バケツが置いてあった。
*トロイ遺跡*
木馬 | アテネ神殿天井 | 第6トロイ市東門 | 第9トロイ市音楽堂 | 舗装の坂道 |
ホメロスの叙事詩「イリアス」で有名なトロイ、10年も続いたトロイ戦争後の遺跡をこの目で観ようと期待したが、残念ながら観光用の巨大な木馬以外には見るべきものが少ない。紀元前3千年前から都市が構築され、侵略・火災・地震などにより廃墟となるが、そのたびに新しい都市が廃墟の上に構築された、紀元前350年前に9番目の都市ができている。保存・修復状態は良くない、ガイドが説明してくれてもイメージが湧いて来ない。周遊する番号だけで案内板・説明板も無い、不親切な遺跡である。
今から5千年前のことだから無理も無いが、アテネ神殿跡、聖域、小劇場などは未だ観てわかる。6世紀大規模な地震でトロイの歴史はこの世の中から抹殺されたらしい。
廃墟を一周すると肥沃なトロイ平原が眼下に見え、はるかにエーゲ海、ダーダネルス海峡が見える。今は海抜36mだが岩盤は16m、20mも5千年で石・土などが上に上に積まれたことになる。トロイ平原の昔は浅瀬の海であり、遺跡の下まで海がきていた。イダ山から流れるスカマンデル川のデルタ地帯である。
トロイの人口は狭い区画のアクロポリス(遺跡)の中だけで千人以下、あとは場外に1万人くらい住んでいたであろう。叙事詩でトロイ戦争のときギリシア兵が14万人船でやってきたというのはオーバーで精々1万人以下であろう。それと10年も休戦を含んで戦ったのだから双方とも疲弊は激しかったであろう。
アレキサンダー大王とかコンスタンティヌス帝もこの地を訪れている。交易で栄えているが首都にはしなかった。イスタンブールを首都にしている。トロイ戦争の口伝が王様を揺り動かしたのであろう。
叙事詩24巻を読んで、感激したのがドイツの牧師の息子シュリーマン。語学の才能はあった、数ヶ国語はこなした。クリミヤ戦争、アメリカゴールドラッシュなどに乗じて莫大な財産を築いた。41歳で実業家を止め中国の万里の長城など遺跡めぐりをする。ロシア人の妻と3人の子があるのに離婚した。43歳、若きころの夢にまで見たトロイの叙事詩、ギリシアに行きトロイの木馬跡を発見することに夢中になる。遺跡発掘を繰り返し、遂にトロイが本物であることを確信する。ギリシア人の妻を司教に依頼する、写真から17歳のうら若き乙女を選び口頭試問する。試験は合格、伴侶にしてトロイに同行した。土地の所有者、トルコ政府、外国関係者などとの交渉は実業家時代につけた渉外能力が役に立った。遂に51歳のとき発掘現場の中から2番目の都市を発見し財宝をひそかにギリシアまで運ぶ。その後56歳のとき考古学者とともに発掘調査する、第7番目の都市を見つけた。
シュリーマンがドイツに持ち帰った財宝は、第2次大戦の混乱に乗じてベルリンから散逸した、大半はロシア・プーシキン博物館にあるらしい。
トロイ遺跡よりも近くのベルガモン遺跡のほうが同じ時間・コストなら一見の価値があるのではないかと思った。ガイドに聞いたら、その通りだが大型バスが近くまで行けない。時間的な関係とトロイは世界遺産であり見逃すわけには行かないのでしょう。そのうち道路も広く駐車場も整備され、エフェスのように開かれた遺跡になるでしょう、その時またトルコにぜひ来てください、との返事であった。何年か前ベルリンのベルガモン博物館の中に入ると正面に復元されたベルガモンの大祭壇があり度肝を抜かれた覚えがある。130年前ドイツ人がトルコのベルガモン・アクロポリスから発掘、丸ごとドイツに持ち帰った。シュリーマンもドイツ人、19世紀ドイツ人の古代遺跡・遺物に関するロマンと執念に感嘆せざるを得ない。しかし見方によっては古代遺物・遺産の列強による収奪ということにもなる。
チャナッカレ近くのラプセキ港よりバスはフェリーに乗る。ダーダネル海峡を渡りゲリボル港に着く。船上に陽気なジプシー一行がいた、よく騒ぐ。粗末な身なりだが、どこで稼いでいるのだろう、聞きそびれた。ゲリボル半島をダーダネル海峡沿いにイスタンブールへバスは走る。のどかな田園風景が広がる、水田もある、トルコ領内だがここはヨーロッパの匂いがする。イスタンブールに近づくにつれ、帰宅の車の渋滞に巻き込まれ港からホテルに着くまで3時間半かかった。途中トイレ休憩はあっても、高速道路ではない地道をバスに長時間乗るのは年寄りにはきつい。
*イスタンブール市内見物*
欧州とアジアの接点であるイスタンブール、この都市ほど西洋のキリスト教徒から征服される、イスラム教徒から征服される都市は世界史には無い。紀元前のビザンティウム時代、ローマ帝国のコンスタンティノーブル時代、イスラムのオスマン帝国時代、1600年もの長きに渡り実質的な首都であった。戦禍にもめげず栄耀栄華の歴史は残る、キリスト・イスラムの混然一体な文化・風土も生まれた。シルクロードの終点であり、オリエント急行列車はパリとイスタンブールを結んだ。
アタチュルクが戦艦からの砲撃を避けるため、過去の歴史から決別するため首都をアンカラに移して人口は減ったが、文化・経済の中心地として魅力的な街であり続ける。日本の明治維新、京都から東京に遷都した、それを見習ったのかもしれない。
1日では見切れない、最低2日、欲を言えば観光に3日欲しい街である。
ヒポドローム
3世紀に長さ400m、幅150m、3万人収容の大競馬場であったが、その後政治活動の集会場、反逆者の処刑場にもなった。エジプトから運ばれたオベリスク、ギリシアの戦勝記念の蛇のオベリスク、粗石のオベリスクと3本立つ。海を隔ててよくも運んだものだ。近くにドイツ皇帝が贈った泉もある。
ブルーモスク
ブルーモスク入口 | ドーム天井 | モスク全景 |
17世紀20歳のスルタン1世が7年かけて建造した。ミナレットの高さと本数は権力の象徴だが6本もある。大礼拝堂の広さは53m×51m 高さ43m 、中庭も小ドームが連なる回廊で囲まれている。外から見てもシルエットが画になる巨大モスクである。
中からドームを見上げる、首が痛くなる、装飾が綺麗だ。外光を取り入れる窓はステンドグラス、内部装飾は花や木のタイルの画。人混みでじっくり観ている時間はない。メッカの方角に説教檀もある。青いタイルが多いから、人呼んでブルーモスクになったらしい。
アヤソフィア
アヤソフィア全景 | 天井ドーム | ミフラープ | 聖母子 | ベルガマの壷 |
ギリシア正教の大本山がイスラムのモスクになった、イスタンブールの悲しい歴史を物語る。アヤソフィアとは「神の知恵」を意味する、偶像崇拝を禁じたイスラムでモザイクは漆喰で塗りこめられ、イスラム装飾に代わった。コーランをあげる4本のミナレットも建てられた。建物は77m×71m、高さはドームが56m、ローマのサン・ピエトロ寺院、ミラノのドウモ、ロンドンのセントポールに次いで世界で4番目のもの、基礎構造は6世紀のものである。
アタチュルクは漆喰を除き博物館として公開したのでアヤソフィアは観光客で何時も賑わっている。
モザイクが剥がれ落ちている、それでも「聖母子」「請願」「聖母子と皇帝家族」「キリストと女帝夫妻」などがある。
内陣の回廊にはアラビア文字の円盤が6枚掲げられている。
世界では極めて珍しいキリスト・イスラム教混合寺院である。
トプカプ宮殿
皇帝の門 | スルタンの間 | スルタンの母親の部屋 | イスラム装飾 |
1453年コンスタンティノーブルをメフメット2世は攻略した、以降征服王と呼ばれる。ボスフォラス海峡と金閣湾、マルマラ海に囲まれた岬の要衝の地には大砲が備え付けられていた。大砲はトルコ語でトプカプという、そこに大宮殿を5年の歳月をかけて造成した。海側に2k、陸側に1.4kの城壁をつくり70万㎡の広さ。オスマン帝国の公式宮殿でスルタンは権勢の限りを尽くした。1856年ドルマバフ宮殿ができるまで400年、権力の象徴である財宝が貯まりに貯まるわけだ。
ベルサイユ他の欧州風宮殿は、大きな宮殿の周りに庭園を配置する。トプカプ宮殿は庭園を4つに分ける。第1庭園は庶民に解放する、第2庭園は宮廷の関係者、第3庭園はスルタンの家族と関係者、第4庭園が家族の住居である。建物は独立して庭で区切られている、今様に言えば地震・火災、セキュリティに配慮した設計になっている。
皇帝スルタンは正妻を4人娶ることができる、男子を産んだ妻と女子を産んだ妻は差別される。長子相続ではない、男子を産んだ妻たちが息子をスルタンにすべく陰謀の限りを尽くすことになる。スルタンになれなかった息子たちは幽閉されて籠の中の生活を過ごす、中には暗殺されたものもいる。側室の制限は無い、最高300人、子供の数は最高100人というスルタンもいた。
ハレムの宦官はアフリカから連れてこられた黒人が多い、有能な官僚でスルタンの母親、妻の指示で動いていた。ハレムの女性は外国人である、戦争の捕虜、奴隷として買われたもの、出自はいろいろだが才色兼備であった。色白が好まれたためロシア、東欧出身者が多かった。
昼食後自由解散、女房は杖をついている、余り歩けない。近くを観て回る。
グランドバザール
屋根がついた巨大な商店街、550年前から増殖を続けて今や5000店の店が、300m平米のところにひしめいている。何でも売っている、客引きが凄い、中には流暢な日本語を話す人もいる。屋根があるため方向が分からない、同じような店構え・面構えで、来た道を覚えているはずだがやっぱり迷った。
小さな玄関マットの絨毯を買おうと思った、サイズが合わないと言ったら、次から次に隣の店の連中がやってくる。値段が馬鹿高い、日本で買ってもそれほど変らない。郵便で送るとトラブルがつきもの、もって帰るには重い、結局止めた。それにしてもトルコ絨毯が山のようにある、みものである。
地下宮殿(貯水池)
地下貯水池内の廊下 | メドーサの逆さの首の彫刻 | 草模様の彫刻の柱 |
都市に水はなくてはならない。トプカプ宮殿だけで最高5千人が住んでいた。上下水道の水は黒海近くの貯水場から20kmの水道橋で引き入れて、この貯水場に蓄えられた。イスタンブール大学の西側に4世紀に構築された900mの2階建てのローマ式水道橋が今でもある。6世紀の頃から増築を重ねている。最盛時70m×140m、高さ8m、の大きさ、柱が336本、8万㎥の貯水ができた。
1980年地下長水槽の上に見学者用通路が設けられた。ひんやりと涼しい、通路上のライトに照らされている通路の一番奥にギリシア神話に出てくるメドーサの首の彫刻石が横向けと逆さの2個ある。頭部だけで1mの大きな石、魔除けにどこからか調達してきたらしい。柱頭だけでなく柱にも草の模様などが刻まれている。天井も幾何学模様で綺麗だ。インフラとして水瓶を如何に大切にしたか、神がかり的な彫刻を一見の価値がある。
暗闇の中に魚が泳いでいる、宮殿カフェもある、宮殿コンサートの張り紙がある。この地下宮殿、アヤソフィア博物館からトラム(路面電車)を渡った西北にあるが、入り口が極めて分かりにくい。2回も道を聞いた、地図を出して道を尋ねる。トルコの若い男の子、教えてくれたが間違っていた。道は中高年の人に聞いたほうがよい。
ガラタ橋
金閣湾にかかる橋は、初代1845年木製の橋、次が跳ね橋、いづれも火災で焼けた。
1922年現在の橋になる。長さ400m、上は車と人、下は飲食店が並んでいる。橋の上は釣り糸を垂らす人が何人かいた、バケツを見ると何匹か魚が入っていた。ガキみたいな少年が物売りをしている、しつっこいのに手を焼いた、NOと言っても聞こえない振りしてせがんでくる。下の飲食店、片言の日本語で客引きをしている、どの店も値段表は変らない、高い、交渉の余地があるかも。
橋の上からの眺めは最高である。橋の袂の16世紀建てられ新モスクは画になる、金角湾を行き交うフェリー、かもめも飛んでいる。360度観ていて飽きない、東西の架け橋を体感する。この橋の公共トイレ、トルコ式、日本の和風トイレに似ている。水を流すのは手でバケツの水を汲んで行う。