米国西海岸紀行
ー シスコ・ヨセミテ、 ベガス・キャニオン、 ロス・サンジェゴ・ティファナ − 


米国東海岸は10年位前に旅行したが、西海岸は未だ女房は観ていない。ぜひ一度というので杖を突いた女房を連れて行ってきた。添乗員付きのツアーも便利だが、自由行動の多いほうが面白い。飛行機とホテルを予約しておき、飛行場で現地のガイドが旗を立てて迎えてくれる旅行。どこの旅行会社も同工異曲、さほど変っていない。以前米国東海岸ツアーのときボストンでホテルがダブルブッキングになり、時間を損した覚えがある。その前科があるものの総合的に考えJTBのツアーに申し込んだ。10日間の日程である。

 ヨセミテを見るなら、滝の水量が多い5月から6月がよいのは分っていたが、グランドキャニオンも含めて観光客の多いとき、それを避けて静かな初秋の2006年9月末に行くことにした。

 土曜日の17:25のフライトのせいか、成田イクスプレスも空港も空いていた。第2ターミナルの受付カウンターには10数人がいたが、ツアーの行きも帰りも一緒の人は中年女性4人組であることが分った。航空券を貰い、指示されたように搭乗手続きを終える。預け入れ手荷物の鍵を解除してくださいとのことで、アンロックにするが大した荷物が入っているわけではないが心理的には抵抗感がある。ハンドバックに化粧用の口紅も入れないでくださいというのは行き過ぎである、ゼリー状のものは爆薬と間違われるとのことだが本当にそうなのか疑問が残る。最近空港の乗換時など預け入れケースが紛失することが多いから、下着など1日分は身の回り品として機内に持ち込むように事前に注意書きがあった。以前フランスに行ったとき、女房の鞄が行方不明になり、慌てたことがある。最近は危機管理?がしっかりして女性は皆特に気をつけているみたいだった。

サンフランシスコ

 フライトは約9時間半の定刻どおり、サンフランシスコ空港に到着した。現地時間の10時半である。聞いてはいたが米国の入国審査の厳しさには驚いた。2004年からのUS-VISITプログラム、右と左の人差し指の指紋を取られる。次にスタンドの電球みたいなもので顔写真が撮られる、デジカメである。指紋とか顔写真をとられる、余り気持ちの良いものではない。預け入れ荷物を受け取り、税関検査を終えて、ガラガラ鞄を引っ張って到着げートを出たら中年の女性ガイドが名前を書いたカンバンを掲げていてすぐに分かった。

 到着ロビー駐車場に彼女の車が止めてある、大型のバン、後ろに鞄を入れる。座席は二列三人掛けである。ガイドが運転しながらマイクを使いいろいろ説明してくれる、右には左にはと言ってそちらに顔を向ける、運転は大丈夫かと気になる。それは我慢して主だった市内観光に出かけることになった。

 最初はフィッシャマンズ・ワーフ、カニのマークが付いたランドマークがある。今日はあいにく土曜日、観光客で混んでいる、車を止めるところがない。縦列駐車して、6人を降ろし、「お腹が空いたでしょう、カニでも召しあがったら」と言う。皆の好きなものをオーダーして、「食べ終わった方はカニのマークのところで落合いましょう」と言って車を移動させにいく。

 カニを食べるのに、日本式の箸とか身をかきだす細い金属棒もない。手で食べる、奥の席に座ると消費税とチップがかかるのでというガイドのアドバイス。生まれて初めて立ったままカニを食べる。腹が空いていたから茹で上がったカニは旨かったけど、脚の身を取り出すには、噛まなければならない、入れ歯の身には辛い。紙のナプキンで手を拭くが、どうも気持ち悪い、ちょろちょろ出ている水道水で手を洗う、石鹸もない、綺麗に落ちない。カニの匂いが手に付いたままになった。

 ピアというショッピングセンターで自由解散。桟橋のところに建てられた木造の建物、食べ物屋、土産物屋など100軒くらいある、観光客でごったかえしている。余り興味はない、湾内に日向ぼっこしているアシカ達のほうが面白い。ストリートパフォーマンス、小さな子供たちもやっている、終わると帽子に金を入れるように催促する。日本人は不思議と誰も金を入れない、余り金のなさそうな白人以外の有色人種がチップを出している。

 ツイン・ピークスという276mと277mの丘に上がる。こういうところは大型の観光バスでは来れないだろう、中型バンなら小回りが利く、駐車も簡単だ。サンフランシスコ名物の霧・靄がかかりやや見にくかったが、ダウンタウンは一望の下で高層ビルすら小さく見える、対岸のバークレー、オークランドも見える、しかしフレモントは見えない。左のほうには太平洋が霞んでいる。世界三大夜景の一つにサンフランシスコがあるが、ここからの夜景は良いかもしれないがちょっと遠景過ぎるのではないか。 

 ゴールデンゲート・ブリッジの駐車場も混んでいた。ガイドはトイレの前でいったん皆を降ろし、迷うところはないから自由解散にして車を置きに行った。橋には靄がかかり世界一美しい橋という宣伝文句も素直に受け取れる。橋の支柱の高さは227m、新宿センタービルなどの高層ビルと同じ高さだ。全長2789m、車道と歩道がある、歩行者と自転車は無料だが車はサンフランシスコを出るときは無料だが入るときには$5の有料道路。19年前知人に車でナパのワイン村に案内して貰ったときに通ったが、わずか2分くらいだが絶景であったことを思い出す。橋から観るサンフランシスコの夜景は見事なものであった。1963年夏にも社用のついでにゲートブリッジを観にきたが、そのときに比較すると、観覧用施設は格段に整備されている。それでも女子用トイレは長い行列ができている。



 大恐慌後に公共工事としてベイブリッジとゴールデンゲート・ブリッジが着工され、1936年、1937年それぞれ開通している。1846年メキシコとの戦いに勝ち、1850年カリフォルニアは合衆国31番目の州として認知されるやサンフランシスコは爆発的に人口を増やした。1906年の大震災で街は壊滅したのを機会に歓楽街は消え近代都市として再生した。博覧会もネームバリュウをあげた。復興の途次恐慌がやってくる、それを救ったのが大規模公共工事である。今も70年前の橋が現役で美観を維持していることに、米国は国の歴史は浅いが奥深さを感じる。
1963年研修できたときに撮った写真、橋の近くまで行けた。

 フェリープラザ・マッケットプレイスというサンフランシスコ新名所に案内された。その途中にサンフランシスコと対岸のオークランドやバークレーを結ぶ橋がベイブリッジである、前兆13.5km。1936年建設当初は橋の下は鉄道、上は車であったが、今は車専用道路、歩行者は通行できない。サンフランシスコに入るときに$3の有料道路である。橋の近くのフェリー発着場近くに高さ73mの時計台が目印の長細い建物がマーケットプレイス。3年前に出来たばかり、建物は明るい、天井から光が差し込む。有名店や食料品が並んでいるがそれほど安いとは思わなかった。ガイド曰くトイレが綺麗だというが、2箇所とも使用禁止であった。トイレ休憩の意味もあるのにここに来た意味がない。シニアーはトイレが近い、皆トイレを期待していたが当て外れ、早くホテルに帰りたいという人が多かった。私は我慢できない、常持している携帯トイレで用を済ました。ご婦人方は大変であっただろう。

 チャイナタウンを歩くつもりであったが、ご婦人方は疲れが目立つみたい、車でぐるぐる回りホテルに直行した。途中明日ヨセミテにオプショナルツアーを希望される方という問い合わせがあり、申し込んだ。ガイドが携帯で問い合わせると、暫らくして返事が来た。明日720分ホテルロビーに迎えに行く、料金は二人で$300、トラベラーズチェックを切った。

 ホテルはダウンタウンのユニオン・スクエアーにあるセントフランシス、以前研修旅行で泊まったところ、JTBがよく使うところで中にデスクもある。ロビーはゆったりとしている。当時に比較して客層が落ちたような気がする。それは良いとしてもJTBの外人男性社員、ホテル周りの説明とかオプショナルツアーの薦めが長すぎる。チェックインを肩代わりして済ませてくれ客室まで案内してくれた、そこでカードを渡さずに次の客の案内に回った。カードがないから部屋の鍵が開かない、1階のJTBの詰所に行くが彼は居ない、30分後に現れ「そういえばカードを渡すのを忘れました」ふざけるんじゃない、接客の基本がなっていない。外人客はクレジットカードを登録する、それでドアーがあく。日本の団体客?はクレジットカードを登録させられるのにまた部屋のカードが要る、差別だ。

 部屋に入り荷物を整理する、大きな部屋、ダブルベッドが二つ、16階で外の眺めもよい。しかしエアコンを入れても涼しすぎる。窓のカーテンを全開にすれば、端の三角窓が開けっ放し。閉めようとするも錆びていて締まらない。JTBの詰所に行くがもう誰もいない、帰った後である。電話はどのボタンを押せばよいのか分らない、やむなくEmergencyを押す、暫らくして黒人の身なりのきちっとしたのが部屋に来た。窓は閉めようにも締まらない、部屋を出て行き工具ボックスを持ってくる。ようやく窓は締まった。多分一月くらいは開けっ放しであったのではないか、その間お客は文句を言わず部屋に泊まっていた?信じられない。全室・全館禁煙は良いが部屋をしっかり管理・メンテナンスしてもらいたいものだ、JTBの格付けがスーパーデラックスのホテルが泣くというものだ。ホテルの周りに、アルコールを売るリカーと日常品を売るコンビニがあるとJTBから地図を貰っていたので試しに行ってみた。便利ではあるが釣銭を誤魔化された、レジは白人ではなく東洋人である、いまいましい、たかが1ドル以下としても。

ヨセミテ

 朝定刻10分過ぎ、日本人のドライバー兼ガイドが迎えに現れた。既に何人か乗車している、ほかのホテルも周り、4席が832名の満席で大型バンはスタートした。FORD F556 V8のディーゼル車、スピードは出るが乗り心地は極めて悪い、トラックに乗っている感じである。舗装の良いところは未だしも、がたがた道を時速100km以上でブッ飛ばす、たまったものではない。330kmあるらしい、名古屋―東京の東名の距離、それを日帰りするのだから急ぐのは分る。途中2箇所でトイレ休憩、ガソリンスタンドに併設している小売店、コンビニみたいなもの、コーヒーとか軽食も用意されている。200kmを過ぎたところから登り道になる、最後の50kmは日光のいろは坂並みの険しい道でカーブの連続、景色は美しいが右に左に体が動く、カメラ・ビデオも焦点が定まらない。ふと見るとガードレールがない、若し運転を誤れば犠牲者は大きいと心配になる。ドライバーに後から聞いたら国立公園でガードレールが美観上認められないと応える。本当かな、人命のほうが尊いと思うのだが。犠牲者を少なくするにはシートベルトを付けたらよいと思うのだが、これも法律で決められていないからつけていないそうだ。そんなことを言うが、20年以上前から、米国の乗用車はシートベルトをしないとエンジンはかかっても、車は動かないように造られている。前の席だけだけどその意義は大きい。やろうと思えばトラックでもバンでも出来るであろう。

 約4時間半でヨセミテビレッジに着く。ガイドは車からダンボールの箱を2個降ろす。その中に日本食の弁当とお茶が入っている。一つずつ取りビジターセンターの長椅子で昼食をとる。腹が減っているので全部平らげた人が多かった。ガイドはマーセド川に入るのを薦める、靴を脱いで入ると冷たいが気持ちよい。川から上がると不思議にも早く乾燥する、秘密は湿度、20%位らしい。手を水の中に入れハンカチで拭かなくてもすぐ乾く、こんな体験は初めてである。


 世界から年間300万人以上の人が訪れる割にはゴミ、タバコの吸殻が見つからない。尾瀬並みとはいかないまでも、世界遺産でこれほど綺麗なところは珍しい。120年前に国立公園に指定され、東京都と同じくらいの面積の公園、これを維持する人達の隠れた努力があるだろう。キャンパーの数も夏は多い。黒熊が現れる、残飯目当てである。食品類は特別な容器に入れなければならない、車に食品を置かない、襲われるらしい。自然保護、動物保護も訪れる人間の数に比例して手間がかかる。






 エルキャピタン、写真で観るより、現物を前にするとその凄さに度肝を抜かれる。900m余の花崗岩の1枚岩、そこでロッククライミングをしている人が米粒よりも小さく見える。長く見上げていると首がつかれる、ガイドによれば、今日は20パーティー位いると話してくれた。
 ハーフドームは1445mというがこれも花崗岩の一枚岩、氷河に削り取られた岩肌が迫力を添える、麓の高さを入れれば標高2656m。日本の上高地から穂高連峰を仰ぐのに似ているが、スケールがぜんぜん違う。ここは裏から頂上に登れるらしい、全行程3km強行すれば日帰り、2日あれば楽に頂上に立てる、360度のパノラマビューが楽しめるとガイドは言っていた。古希を過ぎては無理であるが、生まれ変わってヨセミテへ来たら是非とも登ってみたいものだ。

 帰りは日曜日のためか込んでいた、5時間かかってホテルに着いた。12時間の日帰りツアーである、ヨセミテにいたのは2時間しかないが、大自然を満喫した。帰りのトイレ休憩時のカリフォルニアの果物は美味かった、長ドライブであったが途中風力発電用の風車が林立しているのも見た、傑作は帰りのベイブリッジから見たサンフランシスコの夜景、目に焼きついている。カメラ・ビデオに撮ったが綺麗に写っていないのが残念至極。 

サンフランシスコ市内見物

 3日目はサンフランシスコ自由行動、ホテルの前のユニオンスクエアーをぶらつく。有名デパートなどがあるが、Tシャツにしても物凄く高い、誰が買うのであろう。パウエルストリートを走るケーブルカー、ユニオンスクエアーで乗ろうと思ったら、何人か並んでいる。おかしいと思って地図を出してきょろきょろしていたら、妙齢の女性が近づいてきた。農協の観光客を案内している最中、ケーブルカーに乗るつもりが、ケーブルが切れて現在自由行動にしてある。親切に教えてくれる、2時間くらい後ならケーブルカーは動くでしょうとの話。タクシーは見かけない、出鼻をくじかれてBARTに乗ろうと坂を下る。今度は中年の男性が声をかけてくる、杖をついた婆さんと爺さんが地図を眺めている、直感で日本から来た観光客と見破られた。どちらに行くかとたずねる、ロシアンヒルと答えると、ケーブルカーのほうが良いでしょう、近くで土産屋を経営しているから、暇があればどうぞといって地図をくれた。ケーブルカーに乗るにしても発着場のほうが便利と坂を下る。50人くらい既に列をなして並んでいる、近くにBARTがある、下りていった。また農協のガイドにぱったり会う、BARTは止めたほうがよい、治安も良くないところを歩く、女房の杖を見てのアドバイス。土産物屋の話をすると、あの店は良心的、私も後からお客さんを連れて行く予定、そこでショッピングしていたらそのうちケーブルカーが動きますよと言う。その言葉に従って土産物屋を訪れた。
43年前はケーブルカーの運転手・車掌は制服を着ていた。

 孫二人のTシャツでも買おうかと思い、裏を見てびっくり、Made in America。まさかと思い聞いてまたびっくり。店主が言うにはロサンゼルス製、誰が作っているか、不法移民のメキシコ人? 後でガイドに聞いた、アメリカは時給1000ドル、メキシコは時給100ドル、あの手この手でロスにたどり着く人が多い。彼女らを不衛生なビルで裸電球の元で長時間労働させる、労働基準法違反で手入れがあるときは、すばやく逃げる。捕まり強制送還されたら一環の終わり、雲の子を散らすようで司直は手が出せないらしい。縫製の経営は韓国人、ビバリーヒルの豪邸に住んでいる人が多い。デザインも韓国人、道理で日本人好みの洒落たTシャツで高級感がある。ロスに行かれたら韓国人街をドライブしてみてください、カンバンを見ればすぐ分かる、チャイナタウンより凄い、リツル東京の日本人街は寂れていると面白い話をしてくれた。ケーブルカーが動き出したと教えてくれたので礼を言い、発着場に急ぐ。

 旅行社から貰った一日フリー乗車券は便利だ、ミュニパスポートの月日をスクラッチして乗る。乗ってから切符の有無を調べる、鷹揚なものだ。ガタコトと軋みながらケーブルカーは坂を登る、カーブとか下りは凄まじい音がする。それを別にすればゆっくり街を眺めることができる。時速6km、早足と同じだが上り坂は有難い。車社会になってもよくも撤去せずに残したものだ、市長が第2次世界大戦後ケーブル廃止宣言したが住民投票で撤去は阻止された。今では動く国定歴史記念物になりサンフランシスコ名物で観光客集めに一役買っている。

 ロシアンヒルは眺めがよい、サンフランシスコにある40ヶ所の中でも有名だ。世界一曲がるくねった道という、ロンバート・ストリートは花に囲まれカーブが10、そこを車が下りてくる、一方通行になっている。登りでエンストしたら大変だ、下りならエンジンブレーキで何とか下りれる。

 一昨日ガイドが車で主だったところを案内してくれた。山の手の高級住宅地、パシフィックハイツのビクトリアンハウス建築の家々、まだ見ていないシビックセンターに行くことにした。昼飯を食べるところを探したがレストランは時間がかかる、簡単な軽食はないものか。歩いているうちにヒルトンホテルの南のエリス通り、エディ通りに入る。ベジタリアン歓迎みたいなビラがある、美味そうだ、野菜もある。入って驚いた、正面にタイ王国の写真がある、タイ料理店であった。生まれて初めてタイ料理を食べる、辛くて口に合わない、それにボリュームが凄い。ビールで流し込んで腹はふくれた。ストリートカーという市電に乗ろう、ミュニパスで無料である。南のほうにあるマーケットストリートに向かう。治安が良くない地域とガイドブックに書いてあるが昼間なら良いと思ったが気持ちが悪い。何せよく肥えた男、酔っ払っているのがわめいている、乞食のようなふりしたのが手を差し出してくる。道路はゴミが散らかっている、汚物が道路にあり下を向いて歩かねばならない。女房は杖をついているが、今までになく早足になる。これでは夜は歩けない、ダウンタウンの中心によくも汚い環境を放置しておくものだ、犯罪の温床になる。

 シビックセンターは地下が駐車場になっている緑の芝生の公園を中心にサンフランシスコの政治、行政、文化の象徴のビルが並んでいる。北側に連邦政府ビルと州政府ビル、西側に市庁舎、その西にオペラハウス、東側にアジア美術館と図書館。観光客は素通りらしいが勿体ない、アメリカの素顔を垣間見れる。

 市庁舎はワシントンの議事堂を似せたとも言われるが、建物は修復を終えて7年目、秀麗なたたずまいである。
遠くからも近くから見ても一幅の絵になる建物である。オペラハウスは
1945年国連憲章がここで署名されたことでも有名だが、1932年建築、1992年改装された花崗岩のクラッシックなビル。市庁舎もオペラハウスも同じデザイナーの作品、どことなく似通っている。

 このオペラハウスの前でしばし佇む。確か中学3年生のとき、大東亜戦争が終わって5年しか経っていないのに朝鮮戦争が始まった。北朝鮮対韓国の戦いは東西冷戦の代理戦争つまりソ連・中国対米国の戦いである。1951年に全面講和か単独講和かで国内世論は分かれる。東大総長ほか知識人、社会党などは全面講和を唱える。吉田総理大臣は南原総長を「曲学阿世」の徒で国際的視野に欠けるならず者と非難する。総理は米国につきつけられた憲法9条を楯に取り再軍備を限りなく遅らせ、日本の復興を優先する単独講和を選んだ、苦渋の決断である。この日から日本は独立を取り戻し「日の丸」を堂々と掲げることができるようになった。このオペラハウスで対日講和条約は米国ほか48カ国と締結されたが、ソ連・支那・印度などは調印していない。もしも全面講和を唱えていたら、北海道・沖縄は近隣諸国に割譲されたかもしれない、奇跡的な日本の経済成長は起こらなかったかもしれない。なお日米安保条約はオペラハウスでなくゴールデン・ゲート・ブリッジ近くの米軍基地で署名された。米国は講和条約署名の4人がサイン、日本は講和条約の署名は6人サインしたのに、安保条約は吉田茂総理大臣だけだった。後世の非難を重々承知の上、日本国を愛するがゆえに、あえて一人で署名した、立派なものである、世界的に見ても不世出の政治家であるといえよう。当時高校1年生ノンポリであった、全面講和のほうが理想的だと若い人は皆思っていた、それを総理は単独講和に舵を切った、偉いものである。

オペラハウスの南側、道路を挟んだ交差点のところにガラス張りのシンフォニーホールがある。オペラハウスでサンフランシスコ交響楽団が演奏していたが、本拠をここに移した。北側のオペラハウスと対照的な近代的な造り、中は3000席あるが、中2階にプライベートボックス席がある、お金持ちの見栄をくすぐる。

 アジア美術館は2003年ゴールデンゲート公園からここに引っ越してきた。旧図書館を改築したもの、デザイナーはパリの駅舎をオルセー美術館に改築した人である。シカゴの実業家が数千点のアジア美術を寄贈した、いろいろな仏像などある、時間がなくて見学できなかったのが残念である。

 新築された公共図書館、月曜日でも人が入っている。白人よりも有色人種が多くいた。日本の図書館に比較するとまず時間。曜日ごとに開館時間が異なる、月・土は10から18時、火〜木は9〜20時、日は1217時、金は126時。日本は組合が強い?、開館時間は短く休日もある、市民の税金で食べさせてもらっているという感覚が希薄である。貸出の本と雑誌の期間は3週間、日本では2週間が多い。CD3週間、DVD1週間、日本でDVDを貸し出すところは少ない。外国語のライブラリーが充実している、貸出機関は3週間。日本の図書館は老人と受験生で占領されているが、この図書館は比較的若い人が多かった。

ラスベガス

 4日目はラスベガスへの移行日、14時のフライトなのに2時間前に空港へ行く。
国際線だけでなく国内線も手荷物検査が厳しくて時間がとられる。しかし
911テロのためか誰も文句を言わない、諦めている。シスコの空港はダウンタウンから25km、極めて近い20分で着く。国際線は25のエアラインが乗り入れてターミナルゲートが二つある全米一の規模だが国内線も3つのターミナル、63都市への乗換えが出来る。ガラス張りの飛行機の翼をイメージした空港の外観は秀麗の一言に尽きる。

 1時間半でラスベガス空港に着く。空港はラスベガスのストリップ(歓楽街)の隣である。40年前の1963年ロスから440k、砂漠の真ん中のルート66を真夏に走ってラスベガスについたことがある。クーラーは効かない、窓を開け放しても熱い風が入るだけ、途中の休憩を入れて7時間かかった。当時はモテルしかなかったが入ればクーラーが効いていて一息ついた覚えがある。世の中便利に快適に移動ができるようになったものだ。

 米国に歴史はないという人もいるが、ラスベガスはその典型的な例だ。たかだか150年前ネヴァダ州に銀山が発見されると36番目の州になり、奴隷制廃止法案成立に力を貸した。100年前に鉄道が開通し、フーバーダムの建設拠点になり、ギャンブルを公認し、離婚を制度化した。サボテンが生きているだけの砂漠をギャンブル、ショー、酒、女の町の世界一の歓楽街に育て上げた。標高660mの砂漠に今や年間3500万人の観光客がやってきて、まばゆい限りのネオンとショーと博打を楽しむ。

 カジノはラスベガスの専売特許だったが、今や世界各地でミニラスベガスが出来てきた。その中でもマカオは2005年売上57億ドル、ラスベガスは60億ドル、2007年には逆転マカオが80億ドル世界一の売上を上げるといわれている。そのほかシンガポール、オーストラリアなどがつづく。

 マカオは中国政府が公式にカジノを認める特別行政区、香港よりもマカオに高度成長で豊かになった中国人観光客が殺到しだした。カジノで庶民がスロットルマシンで掏るのは涙金だ。大きく動くのはラスベガスでも桁違いの金、どこから稼いだ金か分らない場合が多い。マカオでも観光客の賭博金が問題になっている。収賄・脱税・横領など資金洗浄に使われているケースも多い。中国高級公務員が10億円かけてカジノで賭博する。汚職高官の逮捕も話題になり、カジノの金は中国本土の人民の血と汗の結晶との厳しい見方も出てくる。

 2002年にマカオカジノが対外投資をオープンにしてから、ラスベガスのカジノ資本が中国本土のチャイナマネー目当てに参入しだした。それ以降外資系カジノの参入が目白押し今や観光娯楽施設の建設ラッシュであると報道されている。世界の有名ホテルの9割はラスベガスに投資している、利益率は今後の伸びは期待できないから世界各地のカジノに投資することになる。

 それにしても24時間の不夜城、商業主義で浪費をさせ楽します所をよくも造ったものだ。しかも砂漠で電気も水もないところに、エネルギーを浪費している。また砂漠にゴルフ場が幾つもある、水資源は無限ではない。ヨセミテの環境保護を目の当たりに見て、ラスベガスの自然破壊を見ると、米国とは奥の深い国であると痛感する。

 ホテルはルクソール、古代エジプトを再現したスフィンクスとピラミッド型の鉄とガラスの建物、1993年開業である。とてつもなく大きく広い、迷い子になるくらいである。部屋がまた凄く広い、おまけにダブルベッドのでかいのが二つある。テレビはフィリップスの大型家具調のブラウン管TV、観音開きの木製ドアーを開けなければTVは観れない。目覚ましはソニー、これは小さい。バスとシャワー室は別でバスタブの長さは2mもある。大きな姿見、洗面所もでかい。今までこれほどの超大型の部屋に泊まったことはなかったから驚きの連続である。

 しかし部屋にはミニバーはない、湯沸しポットもない。お茶が飲みたいときにはどうするか、部屋の外に出る以外ない。外は迷路、おまけに200m位歩かねばならない、4000室もあるホテルだが大きければよいものではなかろう。フロアー毎に製氷機がある、小さなポリバケツ一杯2ドルである。クレジットカードを入れて買うか、硬貨で買うしかない。外人は皆カードを差し込んで氷を手にしている、ところが当方のカードはホテルに登録してないから使えない。やむなく硬貨を探すが、クオーター(25セント)の硬貨が8枚もいる、手持ちはない。紙幣の硬貨変換機はない、怒れてくる。

 ホテルには高級レストランはある、金と時間が勿体ない。バフェという食べたいものだけ選んで皿にとりテーブルで食べるセルフサービスの24時間営業の店がある。朝、昼、晩で入場料金が違う、一人10から20ドル。それは良いとしてもアルコールは別立てでオーダーしなければならない、面倒である。テーブルへの案内係のおばさんの仕事にしている。

 またバフェに行くのにはどのホテルもカジノの中を通らなければ行けないことになっている、これがまた分りにくい、案内標識がない、または不親切で迷う。ホテルのバフェによりシーフード、肉、中華と特色があるのは良いが、安くて美味しいところはお客が大勢待っている。時間をずらす以外ない。

 カジノはどのホテルも広い、迷路のようなところ。スロットルマシンは昔に比べて余り進歩していない、日本のパチンコはその点では改良・改善されている、ただし短い時間に掏るようになっている。ルーレットなど昔は黒服を着た男性胴元がいたが、いまは女性がかなりいる、しかし白人は少ない。昔のカジノは熱気があったが、今回みるかぎりお客は少ない、だだっ広いカジノ、余分なことだがこれで採算が取れるのか心配になる。現金交換所、鉄格子で囲まれた一角がカジノの隅にある。トラベラーズチェック500ドルをサインしてパスポートも見せて依頼した。ところが偽物でないか、すかしを調べたり発券番号を入力したりしているがどうも分らないみたい、窓口の女性に代わり中年の男性が同じ事を試みる。シティーバンクのTCが贋物が多いのか、500ドルという金額が大きいのか分らないが30分もかかり、パスポートをコピーして、TCにも署名させられて現金に交換できた。時は金である、安全も重要だがTCは面倒である、現ナマを腹帯に入れて歩くほうがどれほど良いか分らない。

グランドキャニオン

 5日目は日帰りでグランドキャニオンに行く。朝ホテルの外の指定された場所に観光会社の車がピックアップに来る。空港ではまた持ち物検査が煩い。リュックに入れてある水もだめという、飲む人も多いが、飲めない人は捨てる。しかしリュック毎預け軽飛行機の後ろに載せる場合はOKということが分る。空港の人により裁量が違う、改善してもらいたいものだ。

 ラスベガス空港とグランドキャニオン空港を結ぶ便は時間が決まっていない。朝から軽飛行機はお客をピストン輸送しているが、グランドキャニオンからお客を乗せて帰ってくるはずが大幅に遅れている。空港で1時間余分に待たされた。待合室のソファが足りない、次の便のお客が来てしまった。日本からツアーに添乗してきたガイドと話した。彼女は実は昨年グランドキャニオンにお客さんをお連れした、時間が来ても戻らない人がいる、そのため飛行機を30分間遅らせてしまったと言っていた。それにしてもはた迷惑な出来事である。

 軽飛行機は快晴な空を飛んでいく。プロペラ機の軽飛行機は初めて乗った、時速400キロ気流は安定していて揺れない、景観は素晴らしいの一言に尽きる。操縦士が前にいる、日本語がうまい2世らしい、右、左と説明してくれる。
 フーバーダム、ミード湖などよくも砂漠にこれだけのものを造ったと感嘆する。コロラド川を堰きとめて
1931年から4年の歳月がかかった。ミード湖は177キロもある、治水・灌漑・発電の多目的フーバーダム、現在も機能している。フーバーダムは小さく見えるが、高さは222m、長さ380m、幅14m、当時は世界最大のダムであった。

空からみる赤茶けたグランドキャニオン、コロラド川の流れ、えぐられた岩肌、それが延々と続いている、東京都の面積と同じ公園である。深さ1500m、全長446キロだが国定公園は170キロ、スケールが大きい。台地の裂け目は狭いところで幅16キロ、広いところで29キロある、唖然として空から見続ける。ビデオ・カメラに撮るがガラスの曇りで綺麗に取れない、それでも何枚かは見ごたえのあるものになった。

 1時間で空港に着くと小型バスに乗り換え30分、サウスリムに着く。カフェテリアに案内される。そこでセルフサービスで昼食をとる。それからヤバパイ・ビューポイントならびにマーサーポイントに案内される。しかし帰りの時間が近づき残念ながら主要な見所を回りきれなかった。出来ることなら朝一番の飛行機で行ったら良かった、ゆっくり観光できたであろう。

標高2200mの国立公園に年間500万人の人が訪れる、なにせ米国議会で1919年に国立公園に指定、1979年国連世界遺産に登録されていることもある。広大な公園の管理は米国内務省国立公園管理局である。様々な情報が提供されている、日本語版のガイドも公園事務所にある、キャンプ、ハイキングの情報そのた、日本ではここまではできないだろう。

 ケネディーが暗殺された1963年の夏、ラスベガスから車でグランドキャニオンに来たことがある。そのときに比較すると、観光施設は格段に整備されていた。しかし927日という時期でも観光客で一杯である、昔は観光客はそれほどいない、しかも殆んど白人であった。今は有色人種が大半、言語が多様である、時代の移り変わりを感ずる。しかし眼前の景色は悠久である。

ラスベガス見物

 6日目はラスベガス自由行動の日、オプショナルツアーで日本から一緒の4人組の中年女性はアウトレットに出かけた。何もここまできてブランド品の安物目指して買い物に行かなくてもと思うのだが、女心は分らない。しかしツアーに出かけたほうが歩かなくても良いのは確かである。ラスベガス・ストリップという南北のでかい道、片道6キロもある。モノレールとかトラムがあるが乗り場まで行くにも結構な距離があるのでタクシーを使うことになる。昼間でも人は歩いているが、夜のほうが断然と多い。輝くばかりのショーがある、建物のショーアップが見事、しかし人により趣味の悪い低俗な演芸場、下らぬ商業主義のショーと映るだろう。

 無料のアトラクションがある、噴水ショー、水と火のショー、火山噴火ショー、時間が来ると人だかりで混んでいる。背が小さい人は前に出ないと見ることはできない。ホテル内のショーは見なかったがどこも空いていた。カジノもどこもお客さんは少なかった。主だったホテルだけ見たが疲れること夥しい、年寄りの行く所ではないと痛感する。目的を決めてそこだけで楽しむほうがよいが、生来の貧乏性何もかも見てやろうと思うから辛くなるだけ。

 それにしてもベラッジオ、ニューヨーク・ニューヨーク、シーザース・パレス、トレジャー・ランド、ミラージュ、ザ・ベネチアン、マンダレー・ベイ、ルクソールなどのホテルがそれぞれ工夫を凝らしている、一見の価値はあるだろう。全てを見るとなると2日は最低かかるかもしれない。



 その昔ラスベガスにきたときにショーを見た、スケールの大きいのに驚いたことがある。宝塚とか日劇ミュージックホールしか見ていなかったから言葉は分らないにしても雰囲気は堪能した。近くから見ていたが、体は素晴らしいが顔や肌は日本人のほうが格段に綺麗であることをそのとき見つけた。 

ロサンゼルス

 7日目はラスベガス1030発ロス行きフライトなのにホテルを800に出る、手回り品の検査がうるさいからとのこと。飛行時間は1時間でロスに着く。男性のガイドが迎えてくれる、ロングバンの中に8人詰め込まれ、ロス市内観光に出かける。世界最大の人工マリーナ、サンタモニカ、ビバリーヒル、ハリウッドなどを巡る。ガイドは自称俳優崩れ、やたら映画に詳しかったが、あいにく映画通はいなかったので話は噛み合わなかった。ファーマーズマーケットで昼食をとる、連れていかれたのは韓国風の店、安いが余り美味くなかった。それより近くのドラッグストアーやスーパーのほうが綺麗で安い果物などが多かった。

世界の都市でロスほど広くて、一般交通機関が少ないところはない。道は広い、高速道路も整備されている、車がなくては生活できないところだ。高校生から車で学校に行くのが多いのもそのためだ。しかし車が持てない人はどうするか、持たなくても生きていけるところに住む。悪名高いサウス・セントラル地区がその典型である。冷蔵庫もない、毎日の食べ物は近くの店で買う、スーパーでまとめて買えば安いが車がなければ行けない。気の毒だと車を寄付しても任意保険料が高くて所有することはできない、結局車は教会が預かることになる。

1992年のロス暴動では死者53人、半分は黒人、30%がラテン系である。しかし逮捕者5600人の半分はラテン系、黒人は30%である。サウス・セントラル地区の韓国人街だけでなく広範囲に暴動が起こり、被害額は10億ドルであった。市民権を持たない人、不法移民ゆえに低賃金で搾取されても文句が言えない人、言えば捕まり強制送還されるから人目を忍んで生活する人々。

ロスを案内するなら、車で高級住宅街ビバリーヒルの豪邸、高級リゾート地のサンタモニカを案内するのも良いが、リツル東京、チャイナタウンのほかに是非とも韓国人街を案内して欲しい。ハングル語の看板があふれている、黒人の商店に変わり韓国人の商店が増えてきた。それが黒人暴動の一因であるが、メキシコからの不法移民で搾取されている人の日頃の鬱憤が輪を掛けて暴動を大きくしたのも事実であろう。現地ガイドに聞くが余り関心も興味もないらしい。

1963年夏、生まれて初めてロスに着いて驚いた、物凄いスモッグ、眼から涙が出てきて止まらない。ガソリンを焚きながら走る大型乗用車から排気ガスが噴出している、一般交通機関がないため無料の高速道路を走る車の多さ、それが原因であった。しかし20年前にロスに来たときはかなり改善されていて、今回はさらに良くなっていると感じた。乗用車は小型になり、排気ガスも激減したが、さらに少なくなるのが望ましいだろう。

ホテルはダウンタウンのシェラトン、金融街の中心にあり設備も整っている。湯沸しポットがある、フィットネスルームもある。何より近くに日本のコンビニに近い店が2ヶ所もあった。サンドウイッチだけでなく、サラダがメインの大きな昼食もある、手軽でヘルシーでよい。ビジネス地区で需要が多いのであろう。

サンジェゴとティファナ見物

8日目はオプショナル・ツアーでサンジェゴ・ティファナに行く。朝7:30ホテルロビーで待つ。同行者は他に男性3人いた、ドライバー兼ガイドの男性が道々を案内しながら国道5号を南下する。ロサンゼルスは気候温暖、雨が少ないので映画のロケには最高でハリウッドなどで世界一の映画産業が育った。ここサンディゴも更に雨が少ない、気候は良いので避暑・避寒のリゾートには最高である。お金持ち、高額年金受給者、シニアーが多いらしい。

しかし大東亜戦争でハワイ襲撃があってから米国太平洋艦隊はハワイからサンジェゴに移り、航空母艦など造船施設もサンフランシスコからここサンジェゴに移動した。国道5号の西側・東側に海軍士官の住宅、兵隊の住宅が並んでいる。大規模な海軍演習施設がある。今はイラクに兵隊の大半は行っているのか、演習の装甲車は1台しか見えなかった。人口は20万人を超えており、軍関係者は30%弱も居り軍都でもある。コンドミニアム(マンション)や住宅は建築ラッシュ、家賃の上昇率も高い。

産業は航空機のほかに、戦後急成長したQUALCOMMの本社がある。高成長期に1年間に4回も株式分割をした電話の半導体技術革新のパイオニアである。日本の携帯関係会社もこの会社から特許を買っている。そのためかアメリカンフットボールの大会のスポンサーでもあるQUALOMM社が、ここで大会を開くときには日本の携帯電話会社は招待されている。アメフトのカルコム・スタジアムがある。

ソニー他電気メーカーはメキシコのティファナほかに工場を造っているが、日本人幹部はサンジェゴからマイクロバスで国境を毎日越えて通勤している。治安の問題、学校、食のマーケットなどでティファナなどメキシコの地域には同化できないらしい。しかし若い独身の人はティファナのほうが住宅は安い、食費はこれまた安いのでスペイン語の日常会話の問題を除いてメキシカンライフをエンジョイしている人もいるらしい。

アメリカからメキシコへの入国は簡単である、車も渋滞はないほどスムースな流れ。しかし逆は大変である。
 歩行者の入管手続は
1時間待ち、長い待ち行列ができている。米国人でもパスポートがなければ入国できなくなったこともあるが、911テロ対策で持ち物検査が厳重になったことが原因である。靴まで脱がされるのには犯罪者扱いされているようで気分はよくない。車の入管手続きは長い列があるが、歩行者ほどではないがクーラーを効かした車から排ガスが流れている、風は無風状態、体には良くないであろう。

ティファナの街に車で入るのでなく、サンジェゴの国境線近くで車を駐車場に止めて歩いてメキシコ側に入り、そこからティファナの街までバスで行く。このバスが時代物で窓ガラスは破れている、エンジンはなかなか懸からない。よくも動くものと感心する。

ティファナの街は椰子が生えていることもあるが街並みがサンジェゴと全然違う、スペイン風の建物はよいとしても2階建てが多い、ごみごみしている。昼食は街のレストラン、ガイドが定食で良いかと聞くから、他に食事を頼むすべも知らないから同意すると「JTB」と言ってオーダーする。ツアーの定番昼食であるらしい。トルティーヤとかサルサというメキシコ料理を初めて食べた。中国料理もそうだが生物は食中毒が怖いので油で揚げてある、それほど油濃くはないが、美味いとは感じない。細長いメキシコ米も副食としてからっと揚げてある。チャーハンのような味付けであれば未だ良いかもしれないが濃いソースつきでおいしくなかった。

ティファナの街中はなぜか歯医者と薬局が多い。米国では歯医者は整形するとべらぼうに高い、薬は医者の処方箋が要る。ティファナでは整形は安い、処方箋がなくても薬は買えるということで米国から越境して日帰りでお客が来るらしい。

スーパーの品物は一応そろっているが、生野菜例えばブロッコリーなどは鮮度がいまいちである。冷凍技術、冷凍車などが整っていないので鮮度管理が行き届いていないのであろう。ミツバチが砂糖をまぶした菓子に群がっている、毒にはならないかもしれないが気持ちが悪い。

革製品、銀製品などが安いのは確かだが、デザイン・加工技術はいまいちである。日常品で使うのには問題はないかもしれない、革の品質はよかった。

サンディエゴの街中を車で通る、サンフランシスコ、ロサンゼルスにない街並みである。スペイン系の色濃い建物が目立つ。マイアミがスペイン系一色であるのに対してサンジェゴはいろいろなものが混ざり合い相乗作用で独特な味付けの街になっているのかもしれない。

ラ・ホヤの海岸は素晴らしい、ロスのサンタモニカより素朴である。
コロナドはサンジェゴ湾に佇む島だが、年代ものの木造のホテルがあり高級リゾート地である。


サンジェゴ湾にある退役した空母ミッドウエイが博物館になっている、沖には空母インデペンデンスが係留している、公園には軍関係のメモリアルもある、軍都の一面を垣間見ることができた。サンジェゴに日帰りのツアーだがきてよかった。

それにしても米国はメキシコと国境を接している、約3300k。今は高さ3mのフェンスが張り巡らされているが、3分の1しか設置していない。不法入国に業を煮やし、国境線に全て高い塀をめぐらす法案が可決された。日本は幸い四面海に囲まれている、不法入国は簡単ではないが、それでも北朝鮮の拉致、ポートピープルの入国の問題がある。国家の間に経済較差がある、言論の自由がないなどで日本不法入国希望者は多い。米国の不法入国者取締りのボーダーパトロール車が走っていたが、難しい問題を抱えてえいるものと同情する。

9日目は帰国の日、フライトは13:00なのにホテルを9:00に出る。昔は通関に1時間だが今は2時間もかかる。時価1億円のX線検査装置に鞄を載せる、緑ならOKだが赤なら鞄を開けて中身を検査する。前に並んだ若者の鞄が赤ランプ、多分整髪用のジェルが引っかかっただろうと言っていた。手荷物にして機内に持ち込むつもりが忘れて、鞄が開けられ中がぐちゃぐちゃになったと苦笑していた。見せしめの為に無作為で赤ランプを点けていると言った人がいたが、真偽のほどは定かではない。それにしてもテロ対策のための安全管理は時間と金の無駄使いである。ロス空港は西海岸最大の空港であるが、でか過ぎて移動が大変である。1時間も搭乗時間まである、ソファは一杯、食事をとるのも席を確保してからでないとだめ、不便である。

10日目定刻16:30に成田に着き、シスコ・ベガス・ロスの10日間の旅は終わった。添乗員がいなくても何とか面白おかしい旅ができた。

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