母なる川ー矢作川ー


三河と矢作川は切っても切れない縁がある。しかし矢作川の知名度は今や低い。それは長野・岐阜・愛知三県にわたり長さ117`は全国39位、流域面積1830平方`は全国35位であり1級河川でも低位にあることにもよる。国土交通局河川局のホーム頁から借用した矢作川流域図をみていただきたい。西三河を貫通している川であることが一目でわかる。

近隣の河川と比較してみた。

河川

水源

流域(平方キロ)

流路(キロ)

人口(万人)

木曽川

鉢盛山(2446m

5275

229

170

長良川

大日岳(1709m

1985

166

83

揖斐川

冠山(1257m

1840

121

60

矢作川

大川入山(1908m

1830

117

69

豊川

段戸山(1152m

724

77

21

天竜川

諏訪湖など

5090

213

72

矢作川は他の河川と比較して川の長さに比べて水源の位置が高い。一概には言えないにしてもダムがなかった頃は川の流れが速く、増水時は氾濫し、そのたびに川の流れが変わって今日に至ったことが分る。また他の川と比較して、砂砂利が多い。これは花崗岩が変質して大雨ごとに流れてくることによる。ダムがなかった頃は白砂の堆積した河川であり、水位が異常に高かった、そのために洪水の都度堤防が決壊した。

堤防が何時ごろから築かれたのか分らないが、川の流路を確定し、洪水の被害を少なくして田圃を増やすことに先人が知恵と汗を絞ってきたのであろう。豊臣政権末期には堤防工事の記録がある。百姓一軒に一人夫駆りだされる、鍬など道具持参で一日米5合支給である。矢作川流域には挙母・岡崎・西尾藩の城下町があり、上流には足助まで舟がさかのぼれた。水運による交易は城下町を潤すから堤防建設・維持は悲願であった。挙母城は矢作川の西にあり洪水の都度浸水して、18世紀半ば遂に西の台地に商人・職人諸共引っ越した。

本格的な治水工事は家康が17世紀始め矢作川の本流を付替えてからである。矢作新川は安城市と西尾市のさかいの台地を掘削して碧南市の三河湾まで流れる。流量は豊かで木曾の山から檜を流して家康の駿府御殿を建築したと言われる。また土砂の流れも多く下流に堆積して新田を造成した。17世紀以降吉良町で12、一色町で24、西尾市で9、碧南市で5ヶ所の新田が開発された。17世紀だけでも三河35万石が1割アップの38万石に増加している。

しかし江戸時代の矢作川は水害との戦いでもある。堤防決壊、修復のための普請は小規模の場合は村請け、藩が金を出すのが藩自普請、幕府頼みが国役普請に分かれる。流域の藩と住民は度重なる洪水でお江戸に陳情するが、幕府も財政難でなかなか許可は下りない。止む無く藩で堤防の修復をくりかえすことが多かった。藩を超えて、また旗本などの知行地が多いところで、住民が代表を江戸勘定奉行所に送り、堤防の普請だけでなく川底が1〜2m上がっているので川の浚渫を何回となく直訴していた。これは村を越え、藩を超えて浄土真宗の講が組織化されていて、今様の住民運動の展開がやり易かったかともあるだろう。決壊のつど空き俵、縄、木杭さらに土嚢を用意し、土方人足を何万人と集めるのは至難のことだった。おまけに国普請は精々二割、しかも遅い。藩で普請をやらざるを得ない。そのため運命共同体の意識が水害のつど醸成され今様の三河独特の耐え忍ぶチームワークができたのであろう。明治以降でも矢作川流域での堤防決壊は100回を超える。江戸時代はさらに多くの水害の歴史、水との戦いがあったのだろう。

明治に入り碧海台地に明治用水が開削される、挙母台地に枝下(しだれ)用水が開削され矢作川の水の有効利用が図られるとともに日本のデンマークと称される先進的農業が勃興することになる。

矢作川沿いに26の発電所がある、それは落差15m以下でありダムとは呼べない。昭和7年に漸く矢作川は1級河川になり、昭和45年本格的な矢作川発電所ダムが上流にできて以降大きな堤防決壊はない。しかし現在川沿いに堤防決壊があれば莫大な資産が明らかに吹き飛ぶようなところに次々と新築の建物が出来上がっていくのは見るだけでも空恐ろしい。寺田寅彦は言っている「災害は忘れた頃にやってくる」

矢作川があるために、舟運が盛んになった。中世には塩・魚・肥料が足助を通じて信州まで運ばれた。西尾市のいわれは煮塩からきている、吉良の塩田は赤穂浪士事件の遠因にもなったほど良質な塩ができた。上流の材木・石灰、年貢米などは川を下った。川船稼業は危険と背中合わせだが、最盛期100艘はあったらしい。川が浅いため平底の木造船で大きいのは全長20m、幅3m、約6トン積載、人が寝起きできるところもあった。

原料を調達・加工し製品を運ぶのに川は重宝であった。岡崎の八丁味噌は江戸時代初期に操業したが、原料の豆は遠隔地から、塩は西尾から川船でやってきた。製品は地元三河・尾張で使われた、最盛期には江戸に5割も売り上げた。なぜ江戸で使われたのか、八丁味噌は豆味噌である、米味噌よりも高温多湿でも発酵が遅い特徴がある。防腐剤がない時代には重宝されたのであろう。時は流れ海軍の潜水艦でも腐らない味噌ということで海軍御用達にもなった。

川は近世になり三河ガラ紡になくてはならないものになった。また舟紡績も行なわれた。明治末期蚕糸業が盛んになったが、これは石炭を三河湾から川船で安く調達できたからでもある。また川船の終点足助は交易の中心であり、職人も往来した。江戸時代には良質な漆ができ「三河漆」として江戸で三河武士同様に高く評価された。伝統工芸品である三河仏壇は三河漆の塗りのよさもその一因である。

矢作川を渡るのにどうしていたのか。渡船は明治時代まであったが橋が架けられたのは近世になってからである。それまでは土の橋で水量が増えると何箇所か決壊していた。東海道五三次で東海道一の橋として浮世絵、屏風、絵巻に紹介されているから、矢作橋は17世紀初頭には架設されていた。檜と欅の秀麗な橋はシーボルトが来日して誉めたたえたという。しかし洪水のつど橋は流され、江戸時代だけでも9回架設され、修復は14回も行なわれている。なかには火事で橋が類焼して架設したとの記録もある。日常の維持管理は岡崎藩が役目だが、普請は幕府の役目である。普請の時には公儀の役人・大工棟梁が200人位矢作の宿、寺、農家に分宿し工事を始めていた。大体10ヶ月から1年くらい新規の橋の架設にかかっている。その間出水時は関係の村々から人をだし水防にこれ努めて橋が流されないようにしていた。架設のときも維持のときも、橋が流されないようにするには大きな桶に水をいれて橋の上に重しとして置くのが普通だった。矢作川の公儀普請は当時の日本の最高土木技術が駆使されていたので三河の村々にその技術・技能の伝承が行なわれ、藩、村の新規の架設橋に応用されたといわれる。

矢作橋は明治元年天皇遷都のときは橋がなく、舟を並べ板を渡した舟橋であった。20年間も橋が無かったとは信じられないが幕末の財政事情が悪化し橋の普請どころでなかったのが理由である。渡船が20年間物流の役目を果たしたらしい。明治時代に2回木造で橋が架けられ、大正時代になり漸く鉄の橋に、昭和になりコンクリート橋になった。

国道1号線の矢作橋、国道153号線の平戸橋(豊田市)、巴橋(豊田市)は国が管理している。平戸橋と巴橋はともに現在は5代目である。県が管理している大きな橋である米津橋(西尾市)は明治9年が最初、現在は8代目である。美矢井橋(岡崎市)は明治18年が初代、現在は8代目である。天神橋(岡崎市)は初代明治40年、現在は3代目。久澄橋(豊田市)は初代明治15年、現在は6代目。郡界橋(豊田市)は初代大正、現在は4代目である。何れも橋の架設には多額の金と技術と労力がいる。しかしそれは地元民の悲願であり現在の公共事業よりもはるかに重みがあった。初代米津橋は地元資金で出来たが、あとは国費、県費が使われた。橋は先人の金と汗と知恵の結晶である。

東京とか大阪の橋に比較して矢作川の堤防には特色がある。東海道線、新幹線、名鉄などで矢作川を渡るとき、堤防がコンクリートでない、堤防または中州に柳など植生があることに気付く。これは戦後昭和28年から堤防の強化策が行なわれたものの、予算が少なく伝統工法に依存したからである。全工事の約半分がコンクリートを使わず、粗朶(そだ)、柳枝などを使った在来工法のもの。おかげで景観や生態系に配慮したことに今やなっている。以前オランダに行ったとき、はりめぐらされたコンクリートの運河を壊して、自然に優しい土の堤防に変えているのにびっくり仰天したことがある。国土の安全は重要であり、治水興亡は大切だが、自然の荒廃との兼ね合わせは難しいものがある。

昔から治山治水と言うではないか、治山がなおざりにされている。長良川河口堰で訴訟沙汰が10年余続いたが、ダムを止めて山の緑を取戻そうという世論が高まったことは喜ばしい。何せ本土でダムのない川は長良川だけだった、政・官・財の癒着で公共土木工事が河口堰になったとしても再発防止をして欲しいものだ。

目次に戻る       作品目録に戻る