横 浜 物 語


PARTT 横浜のお寺と風土

横浜に住んで十数年、それまで住んでいた西三河と違うところがいろいろある。横浜は今350万都市だが100年前は高々10万人の町に過ぎなかった。横浜の市街地は殆んど埋め立てられたところが多い。神奈川県出身者が多いが、東京のベッドタウンで全国から人が集まってきている。どちらかと言えば西部方面の出自の人が多い。

横浜物語は、神奈川県の中の横浜を近隣の都市さらに東京都とのからみで見つめてみたい。また三河とも比較してみたい。まずお寺がどのように違っているか、その影響について書いてみよう。今更お寺でもあるまい、抹香臭い、葬式仏教などはと診るのは偏見かもしれない。歴史を知るのは大事なことである。

1 お寺はどれだけあるか

横浜には現在18の区がある。お寺は480、人口350万人、一寺院当り約7200人だが区別のバラツキが多い。西区は一寺院当り約3300人、ところが旭区は一寺院当り約19500人、約6倍である。一寺院当り1万人以上は旭区に次いで青葉区、瀬谷区、泉区、保土ヶ谷区である。区で一番人口が多い港北区は約6000人だから、新興開発区域がお寺が少ないとは言えない。お寺を建てる土地ほか事情がいろいろあるみたい。

日本のお寺の宗派はいろいろある。奈良時代の南都六宗、平安時代の天台宗・真言宗、鎌倉時代に入って新仏教が登場した。念仏を唱える浄土系では、浄土宗・浄土真宗・時宗。

禅がお題目の禅宗系では、臨済宗・曹洞宗。法華経信仰の日蓮宗など多彩である。江戸時代に禅宗系の黄檗宗が開かれている。それぞれがまた別々の宗派をもちややこしい。すっきりまとまっているのは大きな宗派では曹洞宗だけである。

若い人だけでなくシニアーでも家の宗派を知らない人が多くて驚くことがある。葬式の時に慌てて調べる人が大半である。横浜のお寺の宗派は極めて特異である。現在のお寺のシェアのトップは真言宗約32%、次は曹洞宗約16%、3位は日蓮宗・浄土宗が約14%である。全国では浄土真宗がシェアートップだが、横浜では約10%に過ぎない。

2 お寺はいつごろからできたのか

神社とお寺は奈良時代から創建されているが、昔は神様・仏様の違いがあまりなく、また神社・仏閣で無くなったものも多い。横浜に残っているのは弘明寺、川崎には現存しているのは1寺、廃寺が2寺ある。弘明寺は横浜市内最古の古刹であり、境内1600坪、鎌倉・江戸幕府の保護を受けた朱印寺でもある。町の名前、駅の名前に弘明寺を残す。

平安時代になると神社の創建が多い。横浜には杉山神社ほか4神社、川崎には1神社、鎌倉には鶴岡八幡宮ほか1神社。お寺は横浜に12創建され11寺院が現存している。真言宗が7寺、天台宗2寺、曹洞宗・日蓮宗が1寺である。川崎には王禅寺ほか2寺がある。

鎌倉時代に入ると神社は杉山神社が7社、ほかに12社設立された。横浜および近郷には杉山神社が現在も約40ある。これは頼朝が幕府を鎌倉に開く時、鬼門の東北である横浜に杉山神社を建て鎮護をしたと伝えられている。

お寺は横浜に21建立された。真言宗は称名寺・宝生寺ほか9、浄土宗3、曹洞宗・臨済宗・日蓮宗が2、真宗が1寺である。称名寺は北条実時の別荘地に建立された、足利、北条、徳川家の帰依も篤く境内6700坪。徳川幕府より朱印5石を拝領、坂東33番観音霊場の一つでもあり、金沢文庫・金沢八景でも有名である。宝生寺は境内4600坪、徳川幕府から朱印10石を拝領、古儀真言宗法談所の一つとなり末寺も多かった。中世の古文書が多く、その一つに「横浜」と言う地名が出てくる。

真言宗のお寺が横浜地区では昔から建立されていた、そのために今も真言宗のお寺が多い。それだけではない、関東地区には真言宗の名刹がたくさんある。お不動さんで有名な成田山新勝寺、厄除け大師で日本一の参詣者がある川崎大師、ハイキングでも人気の霊山である高尾山薬王院、多摩丘陵に3万坪の境内があり真言宗の教学道場でもあった高幡不動尊などがある。東京大塚には護国寺がある、綱吉の生母桂昌院の発願でできた。寺領300石、関東真言宗の大壇林でもあった。

3 宗派に違いがあるのか

現在文化庁の宗教年鑑によれば、日本仏教は奈良仏教・天台・真言・浄土・禅・日蓮系に分かれて宗派はいろいろある。数え方にもよるが大別して十三の宗派があるという見方が通説である。真言宗はその十三派の一つであるが、古義の高野山真言宗と新義の真言宗に分かれている。真言宗の特徴として仏教の中で唯一密教であること(天台宗でも一部密教が取り入れられている)、これが他の宗派と際立った差を生み出している。

密教とは

密教は他宗と違い、言葉では言い尽くせないもの、体験しなければ理解できないと説く。仏様の真理を体得するために、生きたまま仏様になれ、仏様の真似をしろ、これが「即身成仏」である。身(肉体的行為)、口(言葉)、意(心)の三業で仏様の力をいただけと説く。修業では独特な形で両手を組み(口)、心を一つにして(意)、仏様と一心同体となった(入我我入)という瞑想を行なう、これを「蜜」という。この祈りにも似た行いで仏様の援護をもらう、これが「加持」で煩悩から解脱して救われることになる。

密教の僧侶は信者のために福徳を祈願する。真言宗の寺では祭壇の中で火を焚いて真言を唱える、護摩とも呼ばれている。無病息災、願望成就、病気平癒、商売繁盛、五穀豊饒などを祈る。神社と何が違うか、現世利益だけでなく心の迷い、悩みを修業のなかで体得して自らを高めることに値打ちを見出す。真言とは大日如来の説いた真理のことで密教の呪文である。浄土系の念仏と同じような主旨である。真言の教えは「大日経」などの教典になっている。とはいえ貴族・高級武士など知的レベルが高い人には向くが、百姓・町人・職人などには極めて難解である。加持祈祷だけ頼むことになる。

葬儀の特徴

難しいことはさておき、葬儀などにも特徴がある。葬儀では読経だけでなく真言の印がある。引導,破地獄など意味は分らないが荘重である。告別式が終わると祭壇から棺が下ろされ、遺族・親族の「別れ花」が行なわれる。そのあと蓋をしめて「釘打ち」をする。釘を石で打ちつける。喪主が頭の方から、血縁の順番で足の方まで打ちつける。古来石には死者の霊を守る力があるとのことで棺の中に死者を閉じ込める。別れ花は他の宗派でも行なわれるが釘打ちは少ない、浄土真宗では行なわれない。浄土真宗では葬儀は永遠の別れを告げる儀式ではなく、仏様の願力で浄土で会えることを確かめる儀式である。「死出の旅に出る」という考えは無い、「死装束」もつけない。仏様を信じて念仏すれば浄土に行けるから死出の旅に出る必要はない。お参りは遺体ではない、仏様の本尊に対する臨終勤行との教えである。しかし現在はあまり固いことを僧侶も言わなくなった。

お墓の卒塔婆にも特徴がある。真言宗では「五輪塔婆」と呼びお墓の後ろに故人の追善供養として立てる。宇宙の五大原理の空・風・火・水・地がインドのサンスクリット語で墨で書かれている。浄土真宗には卒塔婆はない。お墓は遺骨の奉安所であり、故人との繋がりを確かめ、今日あることを感謝する場所である。

真言宗では仏壇に戒名を書いた位牌を納めるが、浄土真宗では位牌はない。あるのは過去帳、そもそも戒名とは言わず法名と言う。浄土真宗には受戒がないからである。受戒とは出家して仏教徒になるとき、必ず聖徳太子が発布した三宝(仏・法・僧)に帰依し、五つの戒めを守ることを誓う。五戒とは、みだりに殺生をしない、盗みをしない、性ではよこしまで淫らではない、嘘をつかない、酒を飲まないことである。

親鸞は肉食妻帯して、非僧非俗を唱えた。修業しなくても念仏を唱えるだけで救われる、極楽浄土にいけると説く在家仏教を確立した。親鸞の妻帯は破戒に相当することから、古難しい五戒などは浄土真宗にはないので戒名はない。聖徳太子の三宝の法を守れと言うことで法名と言う。

仏壇のご本尊(掛軸)も違う、真言宗では木像、絵像である。浄土真宗では木像より絵像、絵像より名号である。家庭の仏壇では、真言宗では真中に大日如来の絵像、左側に不動明王、右側に弘法大師を掲げる。真宗本願寺派では真中は阿弥陀如来、左側に蓮如上人、右側に親鸞上人、ところが東本願寺では左側に九字名号、右側に十字名号が多い。名号とは「帰命尽十方無碍光如来」「南無不可思議光如来」などが墨書してあるもの。真宗の寺には聖徳太子像、聖徳太子絵像が多いのも特徴的である。

焼香の作法も違う。真言宗では抹香をつまんで香炉に入れるとき、額の位置で香を三回いただく。三宝の仏・法・僧を崇め、三毒の煩悩を消去する意味で三回になっている。浄土真宗大谷派では心と身を清めるいみで抹香は二回つまむが額のところまで挙げない。浄土真宗本願寺では心を清める意味で一回である。現代の葬儀社が取り仕切る葬儀では、固い事を言わない、参列者も焼香はみようみまねで合掌している。

真言宗の葬儀では火葬場から遺骨が戻った時、「清めの塩」と手洗い用の水を用意する。浄土真宗では死者を穢れたものとは見ない、死者の祟りを恐れないので清めの塩を遺族にふりかける事はしない。また火葬場への往復の道順を変えなければならないとかの、まじない、迷信に頼らないのは合理的である。現世祈祷を行なわずひたすら念仏を唱える点で真言宗と浄土真宗は大きく異なる。

禅宗は臨済宗、曹洞宗、さらに黄檗宗と三禅あるがそれぞれ異なる。臨済宗は座禅を悟りに至る手段・道具と考えるが、曹洞宗は座禅に目的も意味も求めず、ただひたすら黙々と壁に向って座禅する。修行して悟ると考えるか、修行して仏になるのではなく修行することが仏の道とするのかで異なる。臨済宗は鎌倉幕府の庇護もあり、将軍、高級武士に信徒が多い。曹洞宗は一般大衆である下級武士・町民・職人・百姓に信徒が増えた。日蓮宗は浄土系の宗派と諍いをしながら、「法華経」を最高教典として来世中心の仏教を現世中心の仏教に変革することを説き、仏の国造りを目指した。仏教宗派それぞれ違う、仏教をひとくくりにして宗派の差は「コップの中の嵐」的に断罪するのは間違いである。とかく学者・評論家の先生は教典ほかの研究に熱心で、実情に疎く、当り障りのない話をしがちである。

4 宗派の風土におよぼす影響

横浜のお寺のシェアは真言宗が3割、浄土真宗が1割というのは全国平均から見ると異常であるが、県単位でみたらどうか。戦前の昭和7年文部省統計の宗教信徒数によれば、神奈川の信徒数は真言宗が62%、浄土系は11%である,そのうち浄土真宗は3%しかない。全国平均は真言宗21%、浄土系は42%である、そのうち浄土真宗は32%。

真言宗と浄土真宗の多い地方

真言宗の信徒が多いところは全国でどこだろうか。シェアでみると、徳島県72%、千葉県69%、岡山63%と続く。40%台に埼玉県、栃木県、高知県、香川県がある。

浄土系のシェアが多いのは石川県90%、鹿児島県、富山県、熊本県が80%台、広島県,滋賀県、山口県が70%台、福岡県、岐阜県、福井県、三重県が60%台、大阪府・愛知県が59%である。

浄土系の中で浄土真宗が多いのは石川県89%、鹿児島県、富山県が80%台、熊本県、広島県が70%台、山口県60%,岐阜県、福井県、大分県、滋賀県、宮崎県、島根県が50%台である。

維新回天の業を果たした山口県・鹿児島県、米作り・もの造りあるいは商人で名高いところは浄土系の宗派のところが多いのが分る。

銀行・商社マンで広島と岡山に勤務した人の多くが隣同士の県で風土は異なると言う。広島の中でも福山は昔備後で安芸の広島と違うと言う人もいる。大田川のデルタ地帯広島は安芸の一向一揆で有名な浄土真宗の門徒が多い74%、働き者が多く、ものの考え方が合理的で結束力が固いことがある。北海道には広島県人が多い、海外にも広島県人は進出している。岡山は真言宗の門徒が多い63%、日蓮宗17%、浄土真宗はわずか6%である。どちらかといえば革新・改良を望まない風土である。

16世紀安芸地区にも真言宗が多かったが、真宗への改宗を迫られた。中世以来の寺の大半は廃寺になり、改宗した真言宗の寺は一部であり、新たに多数の真宗の寺が創立された。16世紀末石山合戦で毛利軍は大活躍をする。そのかげには百姓から武士になった念仏集団の真宗門徒が結束力・闘争力が強く、戦いを勝利に導く。近世になって、「講」ができてますます社会的組織として機能した。毛利の殿様と本願寺が結びつき真宗門徒をうまく活用したことが広島の風土を変えたのであろう。

岡山地方は吉備地方とも言い、平安時代は天台・真言宗のお寺が多かった。鎌倉時代になって、鎌倉新仏教が安芸の広島と同じように入ってきたが、平安仏教は微動だにしない密教王国となった。奈良の昔から吉備の豪族の勢力が強く、神社信仰が厚く土俗信仰もあり、新仏教を拒否する固くなさがあった。関が原で豊臣方についた宇喜多軍は滅び、以降池田家がこの地方を永く治める事になる。岡山藩では池田家の宗教統制は厳しく、布教もままならないだけでなく日蓮宗は弾圧の憂き目にあい多数の犠牲者が出た。維新を迎えても薩長藩閥の支配が長く、中央政権への反発で一部の人が自由民権運動、福祉など社会事業に目覚めたが、大衆の庶民はあまり変ることはなかった。密教文化の下でお上への大勢順応の風土が為政者にうまく使われたのであろう。

江戸時代広島県は外様の大名浅野54万石、譜代の大名浅野10万石の管轄下にあったが、岡山県は外様の大名池田31万石、松平家が津山10万石、その他譜代の大名4名が9万石、外様大名5名が9万石と分割統治されていたことも風土には影響している。おかげで倉敷の街並みと大原美術館が今に残る。

神奈川県のお寺

神奈川県内にも地区特性がある。中世鎌倉時代、武家政権下で鎌倉新仏教が相次いで出た。鎌倉の山手である北部のお寺は、真言宗16、天台宗2、臨済宗14、曹洞宗2寺である。ところが鎌倉の下町、浜よりでは日蓮宗28、浄土宗13、時宗7、真宗1寺である。

室町時代には小田原と足柄郡はお寺の建立ラッシュ、特に小田原市はおかげで甍の街になった。真言宗18(市内10)、浄土宗1614)、日蓮宗1413)、臨済宗123)、曹洞宗8(5)、真宗32)寺が建てられた。

蓮如は室町時代寂れた本願寺を再興し、浄土真宗を全国に普及させたが、北条早雲は禅宗に帰依して一向宗(浄土真宗)を禁制にした。他にも上杉越後、出羽庄内など禁制にするところが多かった。小田原北条100年禁制ために神奈川県には浄土真宗が普及しなかったこともある。北陸加賀の一向一揆で「百姓の持ちたる国」ができた、三河一向一揆で弱冠22歳の徳川家康が命からがら岡崎城に逃げ込んだなどの話が大名のところに伝わるときは、蓮如の意図に反して一向宗は反体制の宗教と烙印を押されていたのであろう。

江戸時代は相模の国は小田原大久保11万石、厚木大久保1万石、横浜金沢米倉1万石の他は天領、旗本領が入り乱れていた。天領は東海道筋を全部押さえ政治的には重要な役割を果たした。江戸幕府の統一的指示が行き届き、一揆なども他藩に比較して少なかった。お寺も将軍・上級武士の加護を受け、大衆のためには余り尽くさなかった。

江戸時代の仏教改革

家康の仏教改革は徹底していた。天台宗の僧天海は3代にわたり宗教統治責任者に君臨して仏教教壇の再編成をした。寺院の特権も奪った、たとえば鎌倉円覚寺は守護不介入だったがその権利は剥奪され傭兵隊長の大田道灌は幕府に登用され江戸城建築に携わることになる。「寺院法度」を発布、自由な布教の制限・禁止、新寺建立の制限をした。また本寺・末寺の規定を立法化して本山中心の中央集権体制にして幕府の命令の周知徹底を図った。島原の乱後「檀家制度」をつくり「宗旨人別帳」「宗門改帳」ができた、今の戸籍の原型がこの時できた。家ごとに家族の年令,宗旨を書き家長が署名、組頭など村の長が連名で捺印した。村を出ることはもとより、結婚・死亡届には住職の署名が必要で僧侶が幕府の官僚機構の一員に組み込まれた。

このためにお寺は自由な布教活動ができなくなった。そのかわり黙っていても檀家が転がり込んできて葬式仏教に成り下がった。競争が無ければ権力は腐敗・堕落するのは古今東西を問わない。仏教が堕落したのは江戸時代からである。ただ仏教各宗派の教学は発展した。日蓮宗が一番早く他宗派も壇林、談林、教学と名前は違うが自派の学説の温存・普及をはかる。これは現在の仏教大学にも一部引き継がれている。真言宗は京都に種智院大学、高野山に高野山大学。浄土宗は京都に仏教大学。浄土真宗は京都に大谷大学、龍谷大学、名古屋に同朋大学。臨済宗は京都に花園大学。曹洞宗は東京に駒澤大学、名古屋に愛知学院大学。日蓮宗は東京に立正大学。総合的な仏教大学は東京に大正大学がある。

日本の宗教改革

欧州には宗教改革があった、ルターはあまりにも有名である。日本にもミニ宗教改革があったと言う人は少ない、蓮如がその人である。ルターは神の前で人は全て平等と言った。蓮如は仏の前で人は平等と言った。歴史に若しはないが、室町時代がもう少し長く続き、江戸時代の「寺院法度」の発布が遅かったら、浄土真宗はもっと人口に膾炙した仏教で信徒数はもっと増えたであろう。蓮如は今様に言えばマーケティングが巧みであったと言うことができる。

平安仏教の真言宗の開祖、空海は唐に留学した。天台宗の空海も唐に留学した。鎌倉仏教の浄土系の開祖、融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞は比叡山延暦寺で法華経の教えを学び天台宗を超えた宗派を生み出した。それは日本の庶民の実情にあったものへの改善で念仏宗である。時宗の一遍は浄土宗から生れている。

臨済宗の栄西は宋に留学、曹洞宗の道元も宋に留学してそれぞれ開祖になった。禅宗を日本に広めたが「臨済将軍、曹洞土民」との言葉があるように臨済宗は格調高く将軍・大名などが顧客であった。曹洞宗は武士主体であったが、エリートの農民・町民・職人を顧客にするように変っていった。曹洞宗のお寺に菩薩像があり現世祈願するのも多い。これも日本人古来の土俗信仰に吮術的宗教心があることから実情に合わせて改善したものであろう。

日蓮宗の開祖日蓮は延暦寺に学び法華経を学んだが「立正安国論」を著し、国を憂える仏教を編み出した。法華宗朝夕のお勤めで「回向文」の「国土安穏家内安全子孫長久」を祈る。また「立正安国論」のさわり「国に衰微無く土に破戒無くんば身はこれ安全にして、心は禅定ならん、この言葉信ずベく崇めるべし」を唱える。国のために身を捧げる人が生れるわけだ。自働織機の豊田佐吉、満州国の石原莞爾、詩人の宮沢賢治ほか国のために身を捧げた人に日蓮宗を信ずる人は多かった。

空海の高野山真言宗から不思議と開祖が出ていない。出るのは最澄の延暦寺天台宗である。真言密教はそれだけ奥が深く、師を追い越せないのかもしれない。難しい密教は別として弘法さんでは有名になった。空海は別名弘法大師として崇められている。天台宗のお寺は昔多かったが、浄土宗、浄土真宗に鞍替えしたお寺も結構多い。融通無碍のところがあり日本人向きなのかもしれない。

江戸時代400年、真言宗の配下にあった横浜では、あまりお寺の影響は庶民にはなかったかもしれない。お寺に頼るのは加持祈祷、現世利益の追求だけである。葬式も庶民は簡素であった。お寺も真宗のように組織的な講とかはない、説教もあまりなく仏教の理解は今一つだったのであろう。

明治44年横浜鶴見に総持寺が完成した。境内15万坪、30余の伽藍があり末寺1万5千、我国屈指の巨大寺院である。本堂は日本一で2千坪、1万人を収容できる。総持寺は、もとは能登にあり開祖は真言宗であつた。曹洞宗に改宗、永平寺と並ぶ曹洞宗の大本山になったが火災で焼失、横浜に移転を決めた。総持寺ができてから横浜およびその近郷都市で曹洞宗のお寺もでき、信徒数も増えた。

東京の宗教地図

東京は江戸時代参勤交代で人も増えたが、武士・町民・職人が全国から参入、100万都市になっていた。室町時代には恐らく真言宗が多かったであろうが、家康入府以来宗教地図は塗り換わった。明治42年の東京府の寺院データによれば、郡部の真言宗は36.8%、市部は6.3%と6倍も違う。家康はもともと浄土宗であったため郡部は9.5%、市部は28.7%と3倍の差がある。浄土真宗は、郡部は僅か1.8%なのに市部は19.4%と11倍近く違う。三河、大阪、近江、北陸など浄土真宗のメッカから、町人・職人が江戸に参入、出身地の浄土真宗に帰依したからだろう。家康は一向一揆に5ヶ月間も苦しめられたので、三河で真宗は禁制にして浄土宗への宗旨換えを要求した。頑強に抵抗する寺は破壊され、蓮如以来100年間の真宗の法灯は途絶えたかにみえた。しかし20年間の禁制が解けると真宗は前よりも強く復活した。それは真宗門徒の信仰に裏付けられた結束力が強かったからである。一揆の時にも「進む足は極楽往生、退く足は無間地獄」の合言葉で戦ったから、弱冠22歳の家康もたじろいだであろう。お上に言われたとて、百姓も武士は変節しない、一揆の参謀本田正信は家康に登用された。関が原の前哨戦で伏見城を僅か1800人で、豊臣方4万人を迎え撃った鳥居元忠も真宗である。三河武士には硬骨漢、律儀者、働き者が多かった、それも真宗の風土が影響しているのだろう。

昭和44年寺社データによれば、東京都内浄土真宗の寺のシェアは13%だが23区内では16%、中央・港・台東・世田谷では20%を超えている。神奈川、横浜の浄土真宗のシェアは6%、9%であり東京に比べれば約半分である。浄土宗・時宗を加えた浄土系でみても東京28%、神奈川21%と差がある。宗教風土が、江戸時代、明治・大正時代、昭和初期にできたとすれば、宗派の差が東京と横浜の風土に影響していると考えられないだろうか。

三浦半島の宗教と風土

古老によれば戦前までは横浜と三浦半島では風土が少し異なると言う人もいる。三浦半島は現在横須賀市・逗子市・葉山町・三浦市など気候温暖なところである。中世三浦一族は善政をひいた、江戸時代に天領になっても水田開発なども行なわれ、当時としては割合豊かな方であった。また浄土系のお寺も鎌倉時代からできていた、江戸末期には尾張の僧侶願海が念仏宗の普及に三浦半島にやってきた。三浦半島には願海の活躍の足跡が沢山ある。三浦半島の浄土系お寺のシェアは昭和44年には何と41%である。浄土真宗のシェアも高く13%もある。これは浦賀港が繁盛したこと、製鉄所・造船所ができたこと、海軍工廠もでき屈指の軍港になったことで全国から人の流入が盛んであったこともある。また工場も現在大きなものがある、農業・漁業・商業・工業のバランスが取れているのかもしれない。横浜と風土が異なるのも当然かもしれない。

歴代総理の中で「変革」を標榜し、筋を曲げないのは小泉純一郎総理である。祖父は真宗が多い鹿児島から横須賀にやってきた、祖父は戒名でなく法名である。

戦後旧中島飛行機のエンジニアーが横須賀で電気自動車の会社を始めた、関東電気自動車である。GHQは乗用車生産を禁止していたが、22年には解禁になる。トヨタ自工が調査した結果、高い技術料とモノ造り力がある。2312月にトヨペットボディーを受注し翌年から生産開始した。25年には関東自動車と社名変更、27年にはトヨタ自販が、29年にはトヨタ自工が資本参加し、トヨタグループの一翼を担う。トヨタグループ内ではデミング賞をデンソーが一番早く36年、トヨタ自工が40年に受賞したが、関東自動車はトヨタ自工の1年後の41年に受賞している。三河のトヨタも宗派は浄土系、横須賀も宗派は浄土系、土着の人達の高いモノ造り能力では似た風土である。

蓮如の布教

三河の真宗のお寺は他の宗派に比較して大きい。豊田市の寺院調査では本堂の中の祭壇と僧侶の座る「内陣」、門徒が座る「外陣」を比較すると真宗は外陣の方が4倍と大きい。平均約50畳、他宗派の2倍はある。それは「報恩講」を開いたり、門徒が集まり説教する場所が必要だったからである。また門徒が村を越えて「講」を組織し、その会合場所にお寺を使用したこともある。蓮如は仏の前で人は平等と説き、説教も壇上からではなく平座で分りやすく説いた。貴族仏教から大衆仏教へと移るにつれて、説教の上手・下手が布教活動のポイントである。絵像を使う、文字を使うしかも言葉の無駄を省き七五調で感動的な話をすることに力が注がれた。「始めシンミリ、中オカシク、終りトウトウ」など芸能的演出も加わり信徒はますます念仏をありがたく唱えることになる。天台宗では三段法、真宗ではそれが改良され五段法になり、起承転結のメリハリある説教が行なわれた。

真宗の僧侶の偉大さ

真言宗では僧侶がリーダーで時の政権に立ち向かったことは少ない。三河では足助(豊田市)出身の武士鈴木正三が出家し念仏禅を唱えた。日常の仕事に励むのが仏道の修行であると勤労の尊さを教える。仕事に打ち込むことが人格の形成になる、人の救済になると教えた。職業倫理としての勤勉と禁欲を説いたのは江戸時代初期になかなかできることではない。弟は島原の代官になり年貢半減を幕府に直訴するが認められず自害する。今島原には鈴木神社が建っている。

西欧ではプロテスタントの国家の方がカトリックの国家より勤勉・禁欲である、成長率も高い。かのマックス・ウェーバーは「資本主義を生みだす精神」で合理的な生活態度が経済倫理感を生み出すと喝破している。与えられた仕事を天職と心得、仕事に真面目に取り組むことが修行そのもの、勤労が宗教的な意味を持っていることは洋の東西を問わないのだろう。そのほうが資本は蓄積でき、経済は発展する。

維新の廃仏毀釈時に真宗以外は寺の合併・廃寺に協力的であった。しかしそれは理不尽と三河蓮泉寺(安城市)の真宗僧侶台嶺は弱冠29歳、お上に抗議した。朝日を拝むことは強要しない。神前の呪文は宗旨にそむくので止めて欲しい。寺院統廃合令はなかったことにして欲しい。この3ケ条は聞き入れられなかった。30数名の僧侶が血判を押して立ち上がる。それを聞いた門徒も付和雷同して2〜3千人、竹槍で大浜(碧南市)に向う、世に言う「大浜騒動」である。3ケ条は撤回されたが、僧侶台嶺は斬罪、僧侶29名、門徒8人が懲役・禁錮の刑を受けた。真言宗の僧侶がお上に抗議して立ち上がり、門徒が追随した話は寡聞にして知らない。

余分なことだがアメリカの著名な経営学者コトラーは「マーケティング」の本の中で、教会はマーケティングを勉強し、お客様である信者のために何をしたら良いか考えていると言う。彼我の差はあるが、日本のお寺も宗派の特徴をいかして、昔も今も信徒獲得に努力すべきであろう。

モノ造り

日本のモノ造りは世界で最高と最近特に言われだした。それは昔から米作りで、収穫を増やすためには知恵を絞り生産性向上を図らねばならなかった。改善また改善で汗水たらして働くだけでなく知恵をだした。仏教では五戒の一つに殺生を禁じている。しかし不作の年だけでなく人が増えれば食えないから人口は変らなかった。動物の世界で数はあまり増減しないのは餌が限られているからである。しかし日本の中世以降、真宗門徒は堕胎が禁じられていた。生きるためには開墾、生産性を上げる以外ない、働き者になるわけだ。真宗門徒はそれだけ僧侶から説教を聞いて信じていたことになる。他の宗派では殺生を禁じられても中々徹底しなかったのは僧侶と門徒の結びつきが低かったからであろう。

モノ造りの指標として県別の日本一の数と伝統工芸品の数を比較してみよう。昔密教王国の神奈川県は人口860万人だが日本一はハンカチーフだけである。伝統工芸品は鎌倉彫ほか2点である。真宗が多い愛知県人口200万人の日本一は野菜・果物・花で8点、工業製品出荷額で5製品、飴菓子、抹茶もある合計15。真宗王国西三河をとれば車関係を除いても日本一は西尾の抹茶全国シェア70%、高浜の三州瓦55%、一色の海老煎餅60%、鰻23%である。愛知県の伝統工芸品は仏壇2、染物3、焼物3、その他4点合計12点ある。

昔密教が多かったが家康入府以来東京の宗教地図は各派混合になった。東京都現在1200万人、日本一は補聴器・電子顕微鏡など7点、伝統工芸品は大島紬・黄八丈など11点に及ぶ。

密教王国岡山県人口195万人の日本一は桃など果物・野菜が3点、衣服が2点、その他3点合計8点。伝統工芸品は備前焼など2点。真宗王国広島県人口290万人の日本一は牡蠣など5点。伝統工芸品は仏壇など5点。

全国で見ても真宗のシェアの高いところほど、通産省指定伝統工芸品の数が多い。また真宗の盛んなところほど仏壇が伝統工芸品になっていて全国に15ある。中でも三河仏壇は精巧で大きく家一軒分の値段のものもあった。近世家の押入れに入るようなオーダーメードのものもあった。釘を使わない、金箔を塗る、寺院の内陣にあるような彫刻・長押、手塗りの漆を使い豪華絢爛の物が多かった。現在最低でも500万、大きい仏壇は1000万はする。三河仏壇の良いことは分解して、綺麗に磨きをかけ組立ができることである。ただし最低150万から400万円の費用がかかる。

5 文明開化の横浜

「ヨコハマ」という名前は、歌にも出てきたブルーライトヨコハマだけでなく何となくロマンチックでエキゾチックな匂いがする。今は「みなとみらい21」で21世紀の都市・街造りが行なわれている。ペリー来航以来150年日本の文明開化の窓口を担ってきた。はまぎんの「横浜ものの始め物語」によれば、横浜開港で新文化が伝来した、その数の多さが書かれている。横浜発のものとして「鉄道」「自転車」「ホテル」「カフェテリア」「競馬」「ボート」「新聞」「和英辞典」「写真」「ビール」「牛乳」「パン」「氷・アイスクリーム」「クリーニング」「石鹸」「理容」「洋裁」「マッチ」が掲げられている。続編では殖産興業・近代生活面では「「ガス灯・電灯」「電信・電話」「波止場」「近代下水道」「鉄の橋」「教会建築」「近代水道」「公園」「外国郵便」「居留地消防隊」「病院」「劇場」「水泳・海水浴」「野球」「テニス」「スケート」「牛鍋」「西洋野菜」「目薬」「時計」「義足」がある。よくも調べたものだと感心する。しかし今も横浜界隈に残り全国に誇れる産業、製品、娯楽として残っているのは少ない。東京ほか全国で製品化されたり、商業化されたりしている。それは何故だろうか。資本の問題もあるかもしれないが、じっくり育てる風土が横浜には無かったからではないだろうか。初物食いは良いとしても、次から次へと目移りして文明開化の波に翻弄されたのかもしれない。密教王国でモノ造りには向かなかったこともあるかもしれない。

明治新政府ができたときには多摩地区は神奈川県であった。昔は相模と武蔵多摩は近接していた、江戸とは縁どうかった。しかし東京の水がめであるから東京に編入したいとの申し込みを神奈川県は唯々諾々と応じた。それは自由民権運動が盛んで税金もあまり入らないから呉れてやるとのことらしい。県民の反対よりも県上層部の独断と偏見が勝ったと言われる。養蚕が盛んな時は八王子から相模原・横浜はシルクロードだった、現在は16号になっている。横浜の保土ヶ谷区西谷は道路情報で慢性的渋滞地点である。2車線が西谷のところだけ1車線だから魔の16号と言われるはずだ。

東京に多摩地区が編入になってから鉄道、道路が多摩地区と東京23区を結びつけた。東西は近くなったが、南北の鉄道、道路は置いてきぼりを食い、多摩地区と横浜地区は疎遠になった。東京は関東大震災後の帝都復興事業で後藤新平が道路のグランドデザインを画いた。昭和通り、明治通り、その後環状6号、7号、8号の計画ができた。東京オリンピックでお江戸日本橋の上に高速道路を建設したが、やがて東京外環自動車道ができれば、都心環状都市高速は不要とも言われる。

横浜の道路計画は遅れに遅れている。最近漸く環状2号が開通し、国道1号の慢性的渋滞が緩和されたところである。横浜新道、第三京浜、保土ヶ谷バイパス、横浜横須賀道路はあるが、部分的道路計画でありグランドデザインを画いたものとは思えない。折角港があり、埋立地に企業が進出しても物流の要の道路網が逼迫していたら、ミナトヨコハマが泣くというもの。

横浜といえばチャイナタウン、中華街が有名である。世界にチャイナタウンは多いが、お客が中国人は少なく(5%)大半は日本人と言うのは珍しい。どこのチャイナタウンも中国人・日本人ほか東洋人がお客である。

横浜開港以来欧米人は清国人を連れてきて、物資の調達、労務の仕事をさせたので居留地に南京街ができた。居留地が廃止されてから、中国人の自由が認められ、関東震災後現在地の道路150Mの両側に店ができた。華僑も多く貿易だけでなく洋裁・ペンキ塗り・活版印刷などを広めた、最盛期6000人も中国人はいた。戦後の復興は目覚しいものがある、門とか廟もでき世界最高のチャイナタウンができた。日本人と中国人が友好的であるから街づくりもうまくいったのであろう。ハマッコは人種偏見も少なく、文明開化の洗礼を100年にわたり受けていたからということもあるのだろう。

横浜にも実業家はいた。埼玉県の北部神川町出身の原善三郎は横浜に出てきて生糸の貿易で成功して豪商になった。初代横浜市議長であり、初代横浜商工会議所会頭である。娘婿が原富太郎である。岐阜県出身、大垣で儒者のもとで学び、早大の前身である専門学校に学ぶ。教師をしていたが生徒に原善三郎の娘がいて、婿入りすることになる。帝国蚕糸社長、横浜興業銀行頭取として実業家として大成功する。日本美術に理解があり、資産を投じて今の三渓園を創り、当時無料で市民にも開放したのは立派である。投資採算無視の旧官営富岡製糸場を引き受けるものがいない、それを36年間も操業し日本の製糸業者としても名をなした。

三渓園の隣に安達謙蔵元内務大臣が私財を投じて立てた八聖殿がある。戦前に国民精神修養道場として選んだ八聖人の彫像がある。キリスト、ソクラテス、孔子、釈迦、聖徳太子、弘法大師(空海)、親鸞、日蓮である。神社の神様よりも仏教関係者が多いのに驚く。仏教の中でも、なぜか聖人は真言宗、浄土真宗、日蓮宗の開祖の三人に絞られている。

「郷土の偉人」は学校の副読本としてどこでも作られ教育に使われているが、二宮尊徳など偉人はいるが、横浜土着の人が偉人になっているのは少ない。東京の副都心として、ベッドタウンとして100年、自立の精神が乏しく、お上の言うとおりに動く風土があるかもしれない。京浜工業都市は官の資本と民の資本でできたが、民の資本は東京発である。

 

そういえば地方銀行の雄、横浜銀行の頭取は大蔵省の指定ポストである。横浜の市長は戦後左派の人が多かった。与党の市長が現れたと思ったら、お役人上がり、土建業者中心に潤ったかもしれないが、市役所ぐるみの選挙で総務部長が漸く逮捕され、多選に終止符が打たれた。それは横浜市民が悪い、自立・自覚に乏しいからである。選挙の投票率は全国もそうだが横浜も年寄は高いが若い人は極めて低い。俺が街の意識は無いのも同然である。市長は任期4年、アメリカ大統領並に2期が望ましい。権力が腐敗するのは洋の東西を問わないから。八年で改革を成し遂げると高い目標を掲げ、他力本願の密教王国の風土を変革して欲しいものだ。

幸い市役所のサービスも改善されてきた、市大病院も改革されている。東証企業150横浜発の高い目標もある。ハマッコはやればできるのだ。8年ぶり基本を叩き込まれた横浜高校は甲子園で優勝した。市長のリーダーシップで名実ともに350万都市に相応しい街造りができることを期待したい。

それにしても2006年の横浜市長選挙には驚いた。投票率35%、前回より4%ダウン、泡沫候補しかいないので中田市長は80%の高信任率である。政令指定都市では初めての即日開票でなく翌日開票を16年ぶりに実施して、直接費用を3200万円削減した。市債残高だけでも2兆円ある、選挙管理委員会は良く頑張った、費用対効果を市の職員が認識始めた証拠であろう。ところが日本の新聞各社は翌日投票で費用削減したことに対して極めて冷淡である。それはそうだろう、カルテル結んで新聞は値下げしたことない。高給で恵まれた生活をした人種が多いので、コスト節減の意義が分らない、経営感覚が無い、困ったものだ。横浜発の費用削減をよくやった、このことは市職員への意識改革で2〜3倍の効果はあるだろう、今後の市政改革に期待したいとでも書いたらどうだろうか。

市長だけ改革の旗を振っても幹部の意識改革が伴わねばならない。同僚の区長が市長選挙に出馬する、横浜市の幹部職員が政治資金パーティーの発起人に名前を連ね、政治資金規正法違反容疑に問われている。前市長の時も総務部長が組織ぐるみの選挙で県警にヒアリングされた。幹部のガードが甘いこと蜜の如し、幹部の意識改革は道半ばである。

密教王国横浜市、何でもお上に頼ればよい市政を続けてきた。市民は市から金を取る算段をしてきた。市政改革の一環で自治会・町内会の補助金削減案も出ている、良いことだ。大きな市役所を小さな市役所にしてもらいたい、そのために自治活動を助成するのは良いことだ。しかし活動内容が問題である、誰もあまり読まない広報配布を基準に金をせがむ、何に使うのだ。批判ばかりする活動に市の金をつぎ込むのは止めるべきだろう。

都会と田舎と違うと反論もあるだろうが、公民館活動の実態はあるだろうか。日本でダントツに公民館が多いのは長野県約2000、神奈川県はワースト7位約200、長野県の10%である。長野県は男性長寿日本一、老人医療費も低い。それは公民館活動が活発なのも一因である。社会教育活動、地区衛生組織活動などが草の根で行なわれていることに特徴がある。さすが長野は教育県、寺子屋日本一のDNAが今も公民館活動に生かされている。

横浜にも地区センターなるものがある。囲碁、合唱、そのたサークル活動に金をだすことの方が、広報配布所帯数に一律千円地域活動支援費として支給する極めてお役所的なばら撒き予算よりはよいだろう。地域の活力を高める、有効な策に金を出す方法に改めるべきだろう。シニアーが活性化すれば医療費も下がる、活力も生れるというもの。東京の方を向いて横浜の悪口をいう人が減るのを期待したい。お上に頼らず自力更生も必要だ。

全国の商工会議所は地盤低下しているが、横浜も同じ。100年の歴史をもつ商品取引所は閉鎖された。開港記念の花火大会は華麗だが、その資金供給元の商工会議所が会員数は減少の一途、初代会頭の三渓園創立者は草葉の陰で嘆いているだろう。

2006年4月10

                    (PARTT 完)

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