親鸞と弁円の遺跡めぐり

                                                                   

            真宗文化センターと大覚寺共催の「山伏弁円の道を歩く会」は、2012年4月22日(日)、曇天のなか開かれた。参加費は無料である。
  大覚寺に8時半に集合して歩き始めた、12時過ぎに霧雨が降ってきて中止。山道AおよびBは登ったが、西念寺への山道Cは辿れなかった。
  山道は倒木、竹の中の道おまけに落葉を踏みしめる上り下り。田野は、せせらぎの流れる小川の田圃の畔道を歩く。半世紀前の里山が今も残っているのに驚く。
  700年前親鸞聖人が板敷山を上り下りして、伝道した往時を偲んで、オールドシニアーには心地よい疲れが残る。真宗文化センターと大覚寺様に多謝あるのみ。
    
            
       
   茨城県石岡市大増の板敷山大覚寺         大覚寺の庭園       山門前に集合して記念撮影         「人喰橋」の石碑
       
     「史跡 板敷山」 の石碑           弁円 歌碑       山道の「板敷峠」の案内板   「親鸞聖人法難の遺跡跡 板敷山」の石碑
       
    弁円 護摩壇跡 板敷山頂上       弁円 護摩壇跡 石碑     「親鸞聖人史跡 板敷山道」の石碑       親鸞聖人使用の禅井
       
      村社鹿島神社の石碑       吾国山の登り口の鳥居      三代目の八房の梅の木     親鸞が念仏を唱えお経を埋めた塚
  

   伝承は大切にされなければならない。しかし板敷山の頂上に佇んで想う。護摩壇で弁円が呪詛をしたとは思えない。山伏には護摩をたかせたかもしれない。
   石碑に 「山も山 道も昔に かはらねど かはりはてたる 我がこころかな」 とある。 本当に詠んだのかどうか分からない。
   弁円は山伏のリーダーである。出羽三山のように厳しい修験者の教育はとてもできない。常陸は文明開化度も高い、食べるのにもさほど困らない。
   地元出身の山伏はハングリー精神に欠ける。時代の先を読めば修験で山伏を食わせることは難しい。ここは山伏集団を解散する以外ない。どうしたものか。
   今様に言えばマッチポンプの演出が板敷山の法難ではなかろうか。弁円は倒産、解雇を防ぐために業態変更を巧みに行った名リーダーであるかもしれない。親鸞にも目をかけられていた。
   そういえば真宗門徒の三河一向一揆のリーダーで家康に刃向うも、真宗禁制20年が解けて、後に許され老中になり、家康の参謀になった本多正信が思い出される。
       
 
        
 
 「真宗は一日にして成らずー親鸞と覚如・存覚ー」  柴浦雅爾 講談社ビジネスパートナーズ 2012.5 より転載

八 弁円の入門

 久慈川をさかのぼると、金砂郷がある。頼朝に滅ぼされたが佐竹豪族の時代は金、砂金を産出していた。雷神山は筑波山に比べるとかなり低いが、それでもかなりの修験者がいた。新しい鉱脈を調べたりするのも手伝っていた。天台系の密教修験でお札を授け祈祷をしていた。専修念仏がこの地区に広まると、金の採掘をしている山師、さらにそのもとで働いている下人たちが念仏集団に加わるようになった。お札の売れ行きが悪く、冥加金も少なくなってきたので、この地区一体の常陸奥郡の修験者を統率する弁円は、対策を迫られていた。草庵、道場に集まる念仏衆を追っ払うだけでは、田圃の稲に集まる雀を追っているのに似ている。名主、地頭にも直訴したが、反応はない、むしろ専修念仏に理解があるのに弁円は驚いた。専修念仏の張本人を抹殺する以外ない。稲田で親鸞聖人の動きを調べると、板敷山を通り常陸国府と往復している、従者は一人または二人であることが分かった。板敷山には獣道も含めて山道は五本ある。法螺貝を持たせた修験者を板敷山の上り口で待たせていた。山上近くで待つ弁円は一向に法螺の音が聞こえてこない。三日三晩待ったが聖人一向は現れない。痺れをきらして稲田の草庵に弁円は屈強な従者一人を連れて赴いた。

 恵心は突然訪れた汚い格好をした修験者二人に驚いた。

弁円はぶっきらぼうに恵心に問いかけた。

「親鸞聖人はおみえですか」

「殿はいつ帰るか分かりません」

「どちらに出かけられたのか」

「霞ヶ浦の鹿島神宮寺かと思いますが、ついでにいろいろな所に立ち寄っていますから」

「板敷山を越えて帰られるのでしょう」

「さあ、そのときによると思います、桜川から帰られるときもあります」

信蓮が走り出てきた、幸心も「お邪魔してはだめです」と赤ん坊の道性を抱いて出てきた。信蓮ははじめて見る修験者の側にいき、法螺貝を珍しそうに眺めて触ろうとする。

弁円は「聖人が帰るまで外で待たせてもらう」と言うから、恵心はいたしかたない、「お入りになってお待ちください」と草庵のなかに招きいれた。

 幸心が茶をもってくる、恵心にどうぞと言われて弁円は一気に飲み干す。

「苦いな、これは何かな」

「お茶でございます」

「これか、栄西が宋から持ってきたのは、京と鎌倉で公家とか武士がたしなんでいると言うのは」

恵心は弁円がどこの人で、何をしている人か、殿に会いたいのはなぜか、いろいろ聞き出していた。難しい顔をして、余り話したくなさそうな弁円も、恵心があまり熱心に話しかけるから、少し心がほぐれて、お茶をお代わりしながら、応えてくれた。

 板敷山に上るとき、聖人の従者の紗信は異様な雰囲気を感じた。順信坊から日が沈むと、山は追いはぎが出て物騒である、聖人を狙う人もいるから気をつけてと言われている。笈には刀が二差し入っている。紗信は平家追討で屋島まで行き勲功を上げた腕前である、聖人に「いざというときは、逃げてください、あとは私にお任せください」と言った。

法螺貝が聞こえた、まもなく三人の修験者が現れた。

紗信は刀を差し修験者の前に出た。

「親鸞聖人だな」

「そうだがお前たちは」

暫らく沈黙が続く、紗信はいらだち

「名前が名乗れないのか、修験者のようだが・・・」

漸く修験者の一人がこたえた。

「奥郡の弁円上人のもとで修行するものです」

「弁円上人とやら言ったな、どこにいるのか」

「稲田の聖人草庵にいます、いまからご案内します」

紗信は聖人に小声で

「事と次第では、聖人の命を狙っているようにみえます、お気をつけてください」

聖人は

「多勢に無勢、喧嘩にはならない。話をじっくり聞くしかない」

空には三日月の光だけ、闇の帳があたりを包んでいる。

法螺貝の音が何回も聞こえ、いつのまにか稲田の草庵前は修験者の溜り場になっていた。

草庵前に恵心と弁円と従者が待っていた。恵心は

「殿、お帰りなさい。弁円上人様がお待ちしていました」

聖人は

「奥郡のほうまで行っていたから、帰りが大分遅くなった」

「弁円です」

「まあ、庵室のなかにどうぞ」

 

蝋燭の明かりが、聖人と紗信、弁円と従者をほのかに照らしている。暫らくはおたがい無言であった。聖人が口を開いた。

「今日は修験者を大勢連れて、どういう御用でしようか」

弁円はむっとして

「奥郡から、帰られたと言うことですが、念仏道場は大勢の人が集まったでしょう」

「奥郡は、親鸞が行くたびごとに人が増え、念仏道場は入りきらないほど繁盛するようになった」

弁円の従者が声を荒立てた。

「それが問題だ、修験者にお布施をくれた人が念仏道場にいくようになり、わしらは食うのに困るようになった・・・」

弁円上人が従者を制しながら

「手前どもの縄張りは奥郡です、そこで専修念仏を説かれては迷惑です、念仏を説くのを止めてもらえませんか」

聖人は困った顔をして

「迷惑と言われてもな、親鸞は仏の前で皆は平等、天子様から百姓、猟師、山師、さらに下人、女も男も同じ。念仏を唱えれば救われて極楽浄土に行くことができるとな。それでみなに有り難がられている、みなが念仏を唱えて眼が顔が輝いているのに、念仏を説くのを止めるわけにはいかない」

従者の膝が怒りでがたがた震えている、弁円上人は従者に落ち着くようにさとしながら、

「祈りを真剣に捧げず、ただ念仏するだけで極楽に行けるとは、まやかしではないか」

聖人は、これ以上問答を続けるのは不毛と思い、延暦寺の二十年にわたる修行、法然祖師のもと、専修念仏に目覚める話をとうとうと話しだした。大きな声で自信を持って抑揚のある話、途中で話をさえぎるわけにもいかず、弁円上人はじっと聞いていた。

幸心はお茶を出してよいやら戸惑っていたが、四人より下がって聞いていた恵心が暗がりの中で気づき、うなじを下げたのでみなの前に出てお茶を出した。聖人の声が止んだとき弁円が口を開いた。

「親鸞聖が人正直に苦労話をされるのを聞いて、頭が下がる思いです。弁円は延暦寺に堂僧として一年余で山を下りました落ちこぼれです。聖人はそこで二十年修行された、堂僧としてと言われましたが、私から見たら学僧として遇され、延暦寺の座主になるよう期待されていたものと思います。名も地位も捨て専修念仏に専念する、戒を破り嫁を娶り子をなす、見ず知らずの東国に専修念仏を説き、衆生を救おうとされている・・・」と絶句する。

聖人は、うなじを下げている弁円に向って

「いやあ、親鸞はそれほどの男ではない、愚か者です。法然祖師も仰った、愚か者を自覚する、そこから阿弥陀如来を信ずる、念仏を唱える、それだけです」

弁円は

「聖人が愚か者、愚か者ですか」

ややあって頭を下げて

「聖人、お願いです。この弁円を弟子にしてください」

頭を上げて

「恥ずかしながら、弟子の山伏、修験者が食い詰めてきた。聖人が居なかったらと思いつめて、板敷山でこっそり亡き者にしようと企みました。三日三晩待ちきれずに、この草庵に乗り込みました。誠に愚か者です、お許しください」

突然弁円上人が弟子にと頭を下げられて、聖人は戸惑いを隠せない。弁円上人が

「今日から弁円の名は廃します。ついては聖人から名を賜りたい」

聖人はその昔、法然祖師に入門し、「善信」の名前をいただいた。初対面の男にと思ったが

「親鸞は弟子を取らない、みな志を同じくする同朋と思っている。名前は「明法」でいかがかな」

「ありがとうございます、これから「明法房証信」と名乗ります、よろしくお願いします。深夜までお邪魔して誠に申し訳ありません」

深々と頭を下げてから草庵を後にする、三日月が山を下りて暗闇の中、弁円上人は山伏修験者一同と帰っていった。

二人を見送ったあと、草庵に入ると信蓮が聖人のところに駆け寄り

「怖かったよ、父上が殺されるかと思った」

聖人は信蓮を抱きかかえ、側にいる恵心に向って

「ご苦労であったな。二人と話すのに気を遣ったであろう。恵心は倭国一の坊守だな」

「まあ、殿はお口がお上手なこと。恵心はこんなこと初めてです、疲れました」

幸心が

「道性を抱いて、震えていました、帰られてよかったわ」

蝋燭に照らされた親鸞聖人の笑顔は、自信にみち幸せそうであった。

 

    

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