喜寿を生きるー人生私流ー
      
 
      徒然なる想い・近況など

   年賀状再考
 歳相応に「断捨離」が必要と思ってもこれがなかなか難しい。今年も今後は欠礼しますという賀状が何通も来た。現役の時は最高400枚書いていたが今は150枚。昔から文面は印刷するが横書き、宛名も手書きの横書きである、珍しがられた。娘からなぜ横書きか、手書きかと不思議がられた。
 一番古い賀状は大学卒業のときの自動車学校同期生、半世紀一度も会っていないのに賀状だけ交換している。来年から欠礼しますとは出せなかった、先様もそうだろうお互い遠慮していた。
 喪中の欠礼も多い、百歳の叔母様の喪中葉書きには当惑した、天寿でしょう?
 娘が逝ったとき年賀状は失礼した、新年になり近況報告含めて礼状を出した。無味乾燥な喪中葉書きは出す気がしなかったから。
 親戚に人生訓を垂れた賀状を出す人がいた。息子に聞いたら、毎年正月から賀状を考えている、何案かできて年末に出す。難しい賀状は誰も読まないと親父に言ったら、「復員してお蔭で永らえている、後の世のために警世のつもりだ、形骸化した賀状は空しい、俺の惚け防止にもなる」とのことだった。天寿を全うされ今は読めないのが寂しい。
 臨済宗の一休高僧は 歳を取るほどお迎えが近い、遊び呆けずよく考えてみろ。
「元日や冥土の旅の一里塚、目出度くもあり目出度くもなし」と衆生を諭したと言われている。形骸化した喪中葉書き、皆が出すから何となく出す賀状は虚礼廃止の最たるもの。出すなら来し方行く末を考え年頭に当たり想うところを書いた賀状がよいのではないかと思う。

   
見眞大師
 娘の7回忌が尾張であった。大きなお寺の本堂の額に金文字で「見眞」と書いてあった。生家の三河仏壇には名号とともに「見眞大師」と書かれた高僧の画像があった、親鸞聖人だった。
 「見眞」は字引を引いても出てこない。図書館の「日本国語大辞典」には「智慧によって真実の理をみぬくこと」と出ていた。出典は「仏説無量寿経巻下」の法説広歎項「・・・ 慧眼見眞 能度彼岸 ・・・」である。慧眼は眞を見てよく彼岸に度すと言うことか、なるほど、親鸞聖人にはぴったりだ。
 親鸞聖人は越後に流罪になった。高僧は朝廷から諡号を贈られるが、聖人には沙汰がなかった。時代は明治になり、天皇から「見眞大師」の諡号を賜った。6年後蓮如上人が「慧灯大師」の諡号を賜った。「大師」諡号が贈られた高僧は現在まで25人いる。天台、真言宗の高僧が多い。
 日本のモノ造りは真宗の盛んなところが強い。極楽浄土に行けると念仏を唱えて仏を信じ、まじめに働き、報恩感謝が心の支えになっていたからである。遅ればせながら明治になりシェアナンバーワンの真宗に明治天皇から諡号を賜った。
 ところが最近宗門は「見眞大師」とは言わなくなったみたい。「親鸞聖人」と言うようになった。生家の仏壇の「見眞大師」像が可哀想である。
 それはさておき7回忌で住職は真面目にお経を読み上げていた。欲を言えば平板である。高校2年の時母親が亡くなり逆縁の悲しみか、祖父が毎朝毎晩お経をあげていた。祖父のお経の方がはるかにうまい。殆ど忘れたが、正信偈で「善導独明仏正意」は確か一呼吸置いて大声で唱えていた。
 親鸞聖人は聖覚法印の声明を学び、字も読めない書けない衆生に正信偈とか和讃を唱えて仏の有難さを教えていた。葬式仏教と言われて久しいが、お経を有難いと思わせるような声明の術を会得してほしいと思う。小冊子を配布し皆で読経するのもよいが、時間の許す範囲で解説付きのお経でもよいのではないか。例えば「仏様の呼び声に目覚めて、はかりしれない命の尊さが分かり、はかりしれない光の尊さに敬いを捧げます。
ハイ 帰命無量壽如来 南無不可思議光・・・」とか。

   
マンション臨時総会
 築23年の分譲マンションの臨時総会、久しぶりに大勢集まった。4時間もかかるが結論出ず次回持越し。
議題の一つは、役員の件。任期2年半数交代はよいが、再任をどうするか。理事長を何年もやるのは不祥事の元、2年いや4年と分かれる。余人をもって替え難い人を相談役にするのは否決された。選挙と同じ、出たい人より出てほしい人を選ぶ方がよい。それはそうだ。
議題の二つ目は専有部分の水漏れの件。修繕積立金を専有部分の修理費用に充てる、これも否決。A棟で水漏れが集中している、BC棟は漏れは起こっていない。その解析もなくマンション全体の漏水リスク低減と言う提案は、いささかお粗末。専有部分の水漏れは難しい、共有部分は保険がかけてあるが、専有部分は通常はかけない。しかしマンションによっては管理組合でかけているところもある。それが望ましい。

  
 ゼミ同窓会
 来年米寿を迎える先生を交えて新年会。久しぶりに大勢集まった。救急車で病院に運ばれたにしてはお元気な先生、舌鋒の鋭さは健在、御同慶の至り。冒頭にゼミナリステンが逝くのは寂しいとの話がある。入院されて日本の医療の将来を杞憂してみえた。それは良くわかるが改善はなかなか難しい。
 先生に「君は癌を患ったにしては、ますます元気だな」と言われて、「耳が遠くなり大声を出しているので元気に見えるかも」と答えたら苦笑されていた。仕事を持っている人の方が元気、それは毎日職場に行くから。しかし誰でも職を持てるわけではない。そこで健康と生きがいをどう考えるか、人それぞれだ。


   先輩と昼食会
 大学2年先輩から昼食のお誘いがあった。黄昏の異端児はありがたいことであると喜んで出かけた。一人は喜寿記念文集「幾山河」の編集事務局長のS先輩、もう一人は「望洋会」のホーム頁と自身の「125歳まで生きる」のホーム頁を作成しているN先輩のお二方。Sさんは同期生のメル友に呼びかけ「リレートーク」を始めて、Nさんが載せている。こういう試みができるのは同期生の結束が固いということと、幹事の面倒見がよいからできることであろう、羨ましい限りである。
 Nさんが125歳まで生きるには、環境問題ほかを改善してと自身をモデルにして真摯に取り組んでいるのには頭が下がる。私はDNAは厳然としてある、癌は遺伝する、長寿の家系はあると意見は異なる。天命と思った方がお迎えが来たとき楽だと思う。
 Nさんと私はホーム頁を作成しているが、訪問者が少ない、どうしたらリピーターが増えるのかと言う悩みは共有している。NさんはHTML言語を駆使して巧みな頁を開設しているが、私は道楽で勝手気儘に発信している。人によっては誰が読むのかと訝る、中には読んで羨ましいという人もいる。人それぞれと思う。

 家に帰り女房に話したら、長時間あなたの独断と偏見を話したのでしょう、先輩に感謝しなければと言う、その通りと思う。いつも耳が遠いので大声で話す、迷惑を承知しているが、これがなかなか治らない。お呼びがかかり長時間先輩と話ができたことは幸せこの上ないことである、多謝。

   「
うつ にならないシンポジュウム」
 交通事故死亡者を上まわる自殺者には心が痛む、潜在的うつ病患者は100万人ともいわれる。早大国際会議場のシンポジュウムを覗いた。500人は入る会議場は半分くらいの入場者数。高名な3人の先生の分かりやすい講義とパネルディスカッションは勉強になった。早期発見、早期治療は万病の鉄則だが、うつ、はそうとは言えないものがある。米国の調査では1年かけても3分の1は治らない。日本は男性が異常に多い。MRIなどで診察するのでなく問診だけである。薬が合わないこともある、副作用もある。神経科医師は最低30分聴かなければならないが、患者数が多く診切れないこともある。有名病院は予約を取るのが難しい。それは確かだが家族とか上司・同僚が早く気付き、早く診断を受けたほうがよいのは言わずもがな。
 うつは遺伝するかとの問いには、糖尿病と同じと考えてください、体質は遺伝するから気をつけるに越したことはないとのこと。
 自殺願望者に知覧特攻記念館を見学させた。家族を、国を守るために「母上、先立つ不幸をお許しください」という遺書を見て自殺願望が消えた、命の大切さを悟ったのであろう。うつは誰でもなる、落ち込むこともある、それから立ち上がる契機がいろいろあることが望ましい。病は自分で治す、医者とか薬はその手助けをする、家族とか同僚のサポートが大切なのは言うまでもない。
 うつ病の入院患者期間は日本が欧米先進国の数倍とか。職場・家庭復帰を考慮したら入院は短い方がよい、医療関係者のさらなる努力を期待したい。
 会議場入り口の路上でDVDを貰った。「巨利をむさぼる向精神薬による治療の真相」というもの。薬九層倍と昔から言うが、巨額の金が動くことよりも確かな診断と副作用の低減で過剰診療が無くなることが望ましいとは切実に思う。
 戦前戦後食べるものも乏しく貧乏であったが、高度成長期を過ごして、幸せな人生を過ごしたことは感謝にたえない。
政治無策で失われた30年、おまけに天災と人災の原発事故で日本の将来は思いやられるが、願わくはうつで悩む人、ましてや自殺者が激減することを切に祈りたい。
 この種のシンポジュウムに多くの人が参加、うつの理解を深めることが望ましい。

   ラジオ深夜便―垣添忠生さんー
 目が覚めると時々ラジオ深夜便を聞いている。びっくりした垣添さんの声である、「最愛の妻の死を乗り越えて」というタイトル、4時台あすへのことばだった。
 垣添さんは読売のナベツネさんの前立腺癌手術の担当医、頼まれて「前立腺癌で死なないために」を著した。当時は前立腺癌の良書はなく私は早速買い求めて熟読玩味したことを覚えている。位人臣を極め天皇陛下の前立腺癌の主治医でもある。
 出自は知らなかったが、研修生時代一回り年上の患者と恋に落ちた。38歳の別居中の女性に26歳の東大医学部卒の自慢の息子を浚われた母親の慨嘆はよく分かる。実家を飛び出し女性と駆け落ちした。先生の一途さと勇気には感服する。彼女は
踊りをよくし、津田塾大、東外大独語卒、東大独文中退の長身の才媛である。
 癌センターの総長でも奥様の癌は分からなかった、肺小細胞癌で自宅で看取った。妻を亡くし鬱状態にあったとき、趣味の山登り、絵描きもよいが、ひたすらモノを書く、これが精神が集中できグリーフ(悲嘆)を一時避けるに良いと言われていた。それが「妻を看取る日」であるとは知らなかった。この本は先生の自分史でもある、強靭な精神力、体力、決断力に加えて明晰な頭脳で医療に挑戦しながら最愛の伴侶と超多忙な中で二人は幸せを育んだ。感動はするが恵まれたお二方のまねはできない。
 いくら偉い人でも鬱になる、ましてや凡人は伴侶や子供の死で大なり小なり鬱的傾向にある。自殺者の遺族はさらに悲嘆にくれるであろう、その数いまや300万人とか。グリーフケアが大事と諸活動が創められた、その活動が広がり鬱患者が早く立ち直るのを祈りたい。
 垣添さんは葬儀もしない、墓も作らない、骨は山に播くとか。それは流儀で良いかもしれないが、凡人は葬儀、一周忌、三回忌、七回忌という時間薬で救われることもある。小さな仏壇でも毎朝、毎晩お経を大声であげる、信心はなくてもそれで悲嘆から救われればよいのではないか。その昔貴族は葬儀をした、衆生は救われない。法然、親鸞が専修念仏を唱えて宗教改革は始まった。昔は悲嘆は念仏が救った、鬱は早く回復したと思う。葬式仏教はもう少し見直されグリーフケアにならないものか。

   スタジオパークー五木寛之さんー
 昼食時時折見ているNHKスタジオパークに五木さんが現れびっくりした。慎太郎さんとは昭和7年組、生年月日は同じである。野球の監督に例えれば、昭和10年組ノム(野村)さんとチョウ(長嶋)さんの二人と似て非なるものがある。片や月見草、片やヒマワリと言われて久しい二人は好対照である。
 五木さんは満州から引き揚げ早大除籍、働きながら小説を書いていた。片や一橋在学中裕次郎の奔放な生活を見て「太陽の季節」を書いた慎太郎さん、芥川賞でデビュー、華麗な作家生活に入ったのと好対照である。
 新聞小説「親鸞」を書き終え単行本が出版されたのを契機に番組出演?
見ていて驚いた、書き溜めはしない、締切にあわせて深夜書く。それに挿絵が加わり校閲をする。よくも体が持ったもの、凡人にはとてもまねできない。中日(東京)新聞で読んでいたが、一日分ずつ書いたとは知らなかった。
 京都、越後、常陸時代これで終りかな?90歳まで生きた親鸞聖人、京都に帰ってからの30年がぜひとも読みたい。歳などと言わないで書いてほしい。
 番組の最後で質問があった、若い人には最近の新書「下山の思想」がよく分からないと?五木さんは一瞬考え込んで躊躇していた?喜寿の爺でもこの本は首をかしげる。出版社にせかされて書いた、巧みな宣伝でベストセラーになった、羊頭狗肉と言うのは失礼かもしれないが。
   
   ALC45周年の集い
 土砂降りの雨の中、幹事の肝いりで開かれた。初代カローラが高岡工場で組み立開始と同時に ALC(Assembly Line Control) をオンラインで始めた。同期の連中からは昔の職場仲間が集まる、しかも45周年、羨ましいと言われた。同じ釜の飯を食べた連中である、懐かしさは一入である。先回は40周年であった、電算部だけでなく、高岡工務部、IBM社の人と合同であった。今回は高岡電算部だけでやりたいとのこと、27名も集まった。
 当時オンラインリアルタイムは珍しかった。プログラムミス、オペレーションミスがあれば昼夜2交代の組み立て工場が止まる。スタッフの人達は苦労の連続であった。工場が2時間も止まった時、カンバンの元祖大野さんから 「コンピューターが心臓だ、ケシカラン、盲腸になれ」 と叱られたが、逆にスタッフはその言葉に生きがいを見出してくれた。
 電算職場を異動後の活躍の話を聞くのは愉しく、嬉しい。ただ若いのにすでに4人も逝った、永らえている身には、寂しさがつのる。
50年を盛大に祝うという、それまではお迎えが来ないように祈りたい。

   湯河原囲碁大会
 2年ぶりに開催された。ファンファン会はAチームが5段から6段5名、Bチームが初段から4段5名がエントリーした。団体戦は4回対戦する。私は初段で末席を汚す、1回戦は初段のシニアーの人、珍しく勝った。隣のM初段の相手はジュニア―の初段、小学校2年生の女子。見ていて吃驚する、相手が打ったら直ぐ打つ、序盤戦から見事なもの。聞いてびっくり、5歳の時から初めて毎日パソコンで囲碁、土曜日は日本棋院ジュニア―スクールに通う、成績も抜群、未来の女子プロを目指すとか。
 2回戦は2段のシニアーの人、こちらが打つと同じように対角線に打つ。天元に打たれて乱戦になり中押し負け。
 3回戦は相手チームが棄権、不戦勝。
 4回戦はきれいな女の子、小学校6年生、3級。こちらが打てば直ぐ打ちかえす、慌てた。考えながら打ち辛勝した。ポンポンと打っていたら負けていた。強いと褒めて囲碁は女性には高尚な趣味で良い、これからも頑張りなさいと励ました。
 ジュニア―の人が大会に参加するのは初めて、ママさん連中がが心配そうに見ていた。孫娘のような子と打つのも一興である。

   山伏弁円の道を歩く会
 真宗文化センター・板敷山大覚寺共催の歩く会に参加した。大覚寺から板敷山を経て西念寺(親鸞稲田草庵跡)までの道を歩き、親鸞と弁円の遺跡を訪ねて、その昔を偲ぶ趣向とのこと。残念ながら小雨が降りだし最後の山道は行けなかったが、約4時間里山の板敷山の近辺遺跡を徘徊した。倒木もある、蜘蛛の巣もある山道、さらにせせらぎの小川が流れる田圃の畦道を歩く、オールドシニアーは足元不如意で疲れた。 しかしお蔭で山野を伝道する親鸞聖人の心意気を味わえた。この会のために先生と院生が実地踏査し、要所ごとに解説がある、今もフィールドワークを旨にされているとのこと、実践躬行に頭が下がる。お寺にもお世話になった。
 「歎異抄」をサークルで勉強している学生諸君との語らいも面白かったが、爺よりも歩く速度が遅いのが気になった、勉強のしすぎかも?
 北関東道も開通して、これだけ親鸞遺跡があるのに案内板も少ない、解説もない。稲田に20年いて教行信証の再編が使命とはいえ、恵信尼と別れて京都に赴いた親鸞、750回忌に薄情な地元の常陸を怨んでいるかもしれない。
 詳細は「親鸞と弁円遺跡巡り」をどうぞ。

   中学クラス会
 女の子が男の子が死んじゃうから、毎年やろうというので今年も三河安城で開かれた。幹事が骨を折るが年々出席者は少なくなる。男8名、女13名、入学時にはクラスは51名いた。
喜寿を迎えても毎年クラス会を開いているのは極めて珍しい。
 これは戦後愛知青年師範付属中学は、実験学校に指定された。抽選中学、Aクラスは非農家主体、Bクラスは商業、農業主体、Cクラスは農家主体と層別された。3年間クラス替えはなし、先生も変わらず、GHQと文部省は思い切ったことをしたものだ。
 後日先生に聞いたら、公立中学との学力差は高校2年で消える、大学、就職、出世にはあまり関係ないと言われた。それにしても先生の力、教育環境は偉大である。
 Aクラスは野村晃先生という恩師に恵まれた、先生は長命でもあった、幹事がよく面倒見たこともあるが、60年余前にタイムスリップして、ワイワイガヤガヤやるのも無上の愉しみである。人生いろいろ、縮図であることが分かる。
 いつまで開くのか、傘寿まで、いや来年までと喧しかった。
  囲碁同好会・FF(ファンファン)会
66歳から奨められて囲碁を始めた。
同好会の世話役になりホーム頁を担当している。会員の棋譜とか、会員のエッセーを同人誌に掲載している。今までのものはそのまま残し、これからのものは新頁に載せたい。
FF会は 「ファンファン会のページ」にどうぞ。
今までの棋譜は 「ファンファン若葉会棋譜指導」にどうぞ。
今までの同人誌は 「ファンファン若葉会同人誌」にどうぞ。
新棋譜と新同人誌は「囲碁同好会ーファンファン会ー」にどうぞ。